カズオ・イシグロ

―強い感情的な力を持つ小説を通し、世界とつながっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた―

今年のノーベル文学賞は、カズオ・イシグロ氏が受賞しました。
昨年のボブ・ディランというサプライズ選考に対し、今年は正統派の作家を選考することでバランスをとった結果と言えるかもしれません。
“配慮”のほどはともかくとして、イシグロ氏は私にとって大切な作家のひとりであり、以前も当ブログで少し触れましたが(No.59)、静謐で端正な筆致に心を惹かれます。

ちょうど今夏、彼の代表作である『日の名残り』を再読したところでしたので、読後メモそのままにあらすじを紹介します。
―執事スティーブンスが語り手となり、忠誠を誓ったダーリントン卿の姿を通して、先の大戦を契機に変わりゆくイギリスを描く。イギリスの栄光は過去のものとなり、夕陽とともに海に沈む。スティーブンスが徳としてきた品格も、その人生を省みたときもっと大切なものがあったのではないか。女中頭ミス・ケントンの女心に気づくことができず、執事であることを理由に世界の趨勢からもあえて目を背けてきた人生。しかしスティーブンスは最後に新しい時代への一歩を踏み出す―

彼の作品の特徴は「記憶」。
『日の名残り』も、人生の黄昏時を迎えたスティーブンスの記憶に基づく回顧録です。「信頼できない語り手」による作品としても有名です。
ダーリントン卿に仕えた日々は、スティーブンスにとって人生の全てであったでしょうから、それを否定することは自身の人生を否定することになります。自身の人生を肯定するためにも、スティーブンスはダーリントン卿に仕えた日々の記憶を美しくとどめておく必要がありました。
しかし、物語の最後、スティーブンスは自身が記憶する栄光の日々と現実との違いに直面します。それでもスティーブンスは、絶望し嘆き悲しむのではなく、海に沈む夕陽を前にひとしきり涙を流した後、新たな一歩を踏み出す決意をするのです。

冒頭に引用した言葉は、スウェーデン・アカデミーが発表したイシグロ氏の選考理由です。
思うに、意識的か無意識的かに関わらず取捨選択された「記憶」によって構築された世界を生きる我々に、目を背けてきた事実と向き合わざるを得ない瞬間が訪れた時、記憶という曖昧な覆いは剥がされ、むき出しとなった真実の世界が姿を現します。そして我々が拠り所としてきた記憶の世界とは、幻想であったことを知るのです。
イシグロ氏は、普遍的なテーマとして「人は真実を語らない」ということを問い、読者に対し「あなたは何から目を背けてきたのか」と物事に対する向き合い方を問う作家であるというのが、選考理由に対する私の解釈です。

ところで、蛇足ながらマスコミの皆さん、毎年繰り広げられる「村上春樹、受賞を逃す」という報道はいかがなものでしょうか。寡聞にして私は、村上氏本人による「ノーベル賞を狙っています」との発言を聞いたことがありません。また、文壇の裏話によると、本当にノーベル賞が欲しければ相応の“振る舞い方”があるものの、村上氏にはどうやらそのような業界ルールに従うつもりはないらしいとのことです。
耳目を引く話題なので毎年このような見出しが躍るのでしょうが、的外れ感が否めませんし、私からすれば、文学に理解や思い入れのない記者(お金のため?)、あるいはアンチ村上氏の記者が書いているものとしか思えません。

 

今朝のお供、
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース(アメリカのバンド)の『SPORTS』。
                                   (佐々木 大輔)