一年の計は元旦にあり。
私も元旦に今年の目標を立てました。その中からひとつ挙げると「読書100冊」。
近年は多くて50冊程度という年が続いておりましたので、今年は倍増です。
1か月あたり8~9冊、3~4日に1冊ペースとなるでしょうか。
今月は9冊読めましたのでまずは順調なスタートを切ったと言えるでしょう。
もちろん、冊数だけをこなすつもりはなく、内容も充実した読書を心掛けるつもりです。
今年は海外現代文学と(国内の)話題の新刊も積極的に読んでいこうと思っています。
先日、久しぶりに海外の現代文学を読みましたが、当然のことながら日本文学とは違う趣がありました。
人間を描くに当たり普遍的なものはあるのですが、捉え方には違いがあらわれます。
その違いの根底にあるものについて思索することも含め、海外文学に接することは異文化への理解の端緒となるものと考えます。
話題の新刊については言わずもがな。
世間の流行を把握するためという理由もありますが、文学(純文学も大衆文学も)は「時代を映す鏡」です。
以前も当ブログで取り上げた言葉ですが、大江健三郎氏は、「優れた芸術家・小説家とは、新しい表現のかたちを持っていて、私たちは彼に与えられたかたちを見て、自分の生きている世界とはこういうものかと、あらためて理解することがある」と言っています。
それから今年は久しぶりにミステリ(特に、いわゆる「新本格派(※)」以降の作品)を集中的に読みたいと思っています。
新本格派ミステリの名作についての指南書も購入しましたので、指南書を参考にリストアップされた作品をひとつずつ読んでいく予定です。
ところで、皆さんがイメージするミステリ小説のお供に合う飲み物とは何でしょうか。
私の場合はコーヒーかワインかウイスキーかというところですが、どれも大好きなので迷ってしまいます。
ワインは犯行の道具になったりとミステリには欠かせないものですが、個人的には探偵役が(チャンドラーのフィリップ・マーロウのように)ハードボイルドな雰囲気の人物であればウイスキーかな。
しかし、お昼からウイスキーをお供に読書は贅沢?すぎるので、日の高いうちはコーヒーとともに、夜はウイスキーとともに。
って、自分で言い出しておきながら何ですが、別に決めつけなくてもいいじゃないですかね。
そのときの気分と作品との相性で楽しむことにします。
今年100冊読めたのかどうか。結果は年末、当ブログで正直に報告いたします。
今年もたくさんの良作に出会えるといいな。
※新本格派(新本格派ミステリ)
綾辻行人が1987年に『十角館の殺人』でデビューしたことをきっかけに、1980年代後半から1990年代前半にかけて、京都大学推理研究会出身者を中心とした20代の新人ミステリ作家が相次いでデビューし、一大ムーブメントが起こった。後続世代は第二世代、第三世代(新新本格派)などと呼ばれている。新本格派ミステリとは、これらの作家による作品を指す。
今朝のお供、
GUNS N’ ROSES(アメリカのバンド)の『USE YOUR ILLUSION Ⅰ&Ⅱ』(スーパーデラックスボックス)。
1991年N.Y.RITZでのライブ音源が完全版で聴ける喜び。誰が何と言おうと私の青春。
(司法書士 佐々木 大輔)
受験生だった年の夏、手にした一冊の本。
――君たちは大江健三郎を読んだことがありますか――
受験対策で通っていた予備校の夏期講習中、講師からの問いかけに、「ノーベル賞記念講演における『あいまいな日本の私』くらいは目を通したことがあったかなあ」などとぼんやり考えていると、その頭の中を見透かしたかのように講師は、「私が言っているのはエッセイや講演の書起しのたぐいではなく、小説のことです」と言葉を継ぐ。
講師の問いかけに導かれるように本屋さんへ行き、新潮文庫の茶色い背表紙が並ぶ中から手にしたのが『死者の奢り・飼育』でした。芥川賞受賞作「飼育」を含むデビュー当時の短編が収められた一冊です。最初に読んだ時はよく理解できず、今でも理解できているとは言い難いのですが、改めて読み返してみると、過剰なほど濃密な表現に満ちていることに驚きます。「飼育」における夏のまとわりつくような熱気とむせ返るようなにおい、むき出しの暴力やグロテスクな性。そのすべてが五感を強烈に刺激します。本当にこれが学生(当時、大江氏は東大生)の手による小説なのか。
一方、同作中で、少年期を<硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔らかく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄えながら剥がれてしまう甘皮のこびりついた青い種子なのだった>とする繊細な表現には、初読の時から魅了されました。
1994年、私が高校2年生の時、川端康成に次いで日本人として2人目のノーベル文学賞受賞者となった大江氏。
ノーベル賞受賞後、『燃えあがる緑の木』を完成させ、小説の筆を折ることを宣言したものの、親友であった作曲家武満徹が亡くなると、その弔辞の中で、新しい小説を捧げることを約束、引退を撤回(本人曰く「宙返り」)し、3年をかけて『宙返り』を上梓しました。これは、すでに大江氏の過去作品を読み進めていた私にとって、リアルタイムで接した初めての新作小説でした。
以降、『取り替え子(チェンジリング)』や『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』など、大江氏本人が“後期の仕事(レイト・ワーク)”と称し発表してきた小説は、できる限りリアルタイムで読んでいます。
レイト・ワークにおける大江氏の文章は非常に読みやすく、翻訳調で難解な文体からは、大きく変容しました。
評論家江藤淳が「論理的な骨格と動的なうねりをもった」と評した大江氏の文体は、時に悪文の見本と揶揄されることもあります(要するに一文がだらだらと長い)。しかし、大江氏の文体は、「正確に伝える」という点において必然であり、一度書き上げた小説を、その2倍から3倍もの時間をかけて、より正確に伝わるよう徹底して書き直した結果なのです。
「イメージを喚起させ作者の意図が正確に伝わる」という意味では悪文ではありません。
ただし、大江氏自身にも自覚はあるようで、書き直すたびどんどん文章が読みにくくなると自虐的に語っています。
レイト・ワークにおける作品群では、大江氏の特徴的な文体と読みやすさが融合しており、初心者でも抵抗を感じることは少ないと思われます(理解が容易かどうかはまた別の話)。
しかし、本気で大江文学と格闘するなら中期の作品、後の大作家の萌芽を感じたいのであれば初期の作品と向き合ってみるのはいかがでしょう。
私は今秋、初読時に理解の及ばなかった『宙返り』に再挑戦する予定です。
※臈たし:上品で美しい。洗練されている。
今朝のお供、
スピッツ(日本のバンド)の曲「渚」。
(佐々木 大輔)
先日、本棚の整理をしていたところ、改めて読み直したい本がたくさん出てきました。季節柄、横溝正史の『金田一耕助シリーズ』も読み返したいし、綾辻行人の『館シリーズ』でもう一度あのどんでん返しの快感を味わいたい。
サマセット・モームの『月と六ペンス』。これは最近、とあるギャラリーを経営されている方と美術のお話をしたことから気持ちが再燃しました。
さらに本棚の奥の方から、藤原伊織の『ひまわりの祝祭』という本も出てきました。
ファン・ゴッホの「ひまわり」を巡る美術ミステリ。
そういえば昔、藤原伊織さんから文章(小論文だったかな?)の添削をしていただいたことがあります。直木賞作家(『テロリストのパラソル』にて受賞)から文章の添削をしていただけるとは、なんて光栄な経験だったのでしょう。
美術ミステリと言えば、今なら断然原田マハ。現役である彼女の作品は、新作や未読のものをどんどん読んでみたい。
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』。これは明らかに今年生誕250年のベートーヴェンの影響です。
ガルシア=マルケスやミラン・クンデラ、トルーマン・カポーティのいくつかの作品も、常々読み返したいと思っています。
それからスタンダールの『パルムの僧院』。
この『パルムの僧院』には、私が高校生の頃、強く影響を受けた言葉があります。
―自分に対する何という無礼だ。その決心をしたときより今の自分の方が利口だと、どうして思うのか―
「過去の自分の決心を悔いる必要はない」という言葉ですが、決心をするにあたっては、将来後悔することがないと言い切れるほど真剣に悩み、迷い、考えた上で結論を出さなければならないのだと、その「覚悟」を突き付けられた思いがあります。
今でもこの言葉は、私の中で生きています。
今朝のお供、
GLAY(日本のバンド)の曲「とまどい」。
『パルムの僧院』の言葉を思い出す時、いつからかこの曲が頭に流れます。
※本日、当事務所の会議室にて『成年後見制度』についてのセミナーを収録いたしました。
後日、株式会社秋田ケーブルテレビ様で放送開始予定です。
放送は8月下旬から9月上旬に開始予定とのことですが、正式に決定しましたら、改めてお知らせいたします。
(佐々木 大輔)