ラスト9分19秒

先日、映画『セッション』(デジタルリマスター版)を映画館で観ました。
『セッション』は2014年(日本では2015年)に公開され、アカデミー賞3部門を受賞した名作です。
今回、公開10年を経て、デジタルリマスター版が上映されました。

オリジナルの『セッション』は、私が2年前の今頃、アマゾンプライムビデオで最初に観た映画でした。
当時はスマートフォンの小さな画面で観たものですから、思い出の作品(しかもデジタルリマスター版)をスクリーンで観られるなんてこれ幸いと、すぐに映画館へ向かいました。

――主人公のニーマンは、バディ・リッチのように偉大なドラマーになるという野望をもって名門音楽院に入学する。
伝説の鬼教師として知られるフレッチャー教授のバンドにスカウトされて喜ぶが、彼を待ち受けていたのは体罰も日常茶飯事の常軌を逸した過酷なレッスンだった。わずかなミスも許さない完璧主義者のフレッチャーは、学生を身体的、精神的にも追い詰めていくが、それに食らいつこうとするニーマンの執念もすさまじい。
ラスト9分19秒、両者の狂気はついに頂点に達する――

これを単に時代にそぐわないパワハラ、アカハラ映画と切り捨てていいものか。
フレッチャーはニーマンに対し、「自分の使命は偉大なミュージシャンを育てること。学生にはジャズ界の伝説になってほしいと願っている。チャーリー・パーカーが伝説になれたのは、ジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられたから(悔しさをバネにして一流になった)」と語ります。
そして「最も危険な言葉はGood job!(上出来だ)という言葉だ」とも。

フレッチャーは才能ある者が立ち向かってくるのを期待したのでしょう。
ニーマンはフレッチャーの意を汲み、未来のチャーリー・パーカーになる勝負に出たのかもしれません(もちろん、なれる保証など何もないけれど)。
一方、このような指導により有能な者が潰される例も多々あること。
これはどんな世界でも起こる問題です。

映画のクライマックス、フレッチャーとニーマンの師弟間における復讐vs復讐の様相を呈し、ラスト9分19秒へと至るのですが、この特別な時間によってふたりは分かり合えたのか、反目したままなのか、それとも一体化したのか。

映画としては素晴らしい作品です。
ただ、この映画に私の好きな「音楽」はありません。
世の中ではこのような方法で音楽と呼ばれるものが作られているのも事実です。
しかしこのようにして生み出されたものを、私は好みません。


今朝のお供、

吉井和哉(日本のミュージシャン)の曲「FLOWER」。

                              (司法書士 佐々木 大輔)

声は電波に乗って

今年で放送開始100年。

100年前の大正14年3月22日、ラジオ放送が開始されました。第一声は「聞こえますか?こちらは東京放送局」だったそう。

私は割と早くからラジオに親しんでおり(といっても、祖父母の家からの帰りに父親の車で聴く野球のナイター中継がほとんどでしたが)、中学生になるとラジオから流れてくる洋楽に心を躍らせるようになりました。
今のようにインターネットが発達しておらず、好きな曲をいつでも聴くことができる時代ではありませんでしたし、情報収集もなかなか大変でした。
そんな時代にラジオは貴重な情報源であり(他は月刊誌くらい)、土曜の午後に放送されていた「ポップス・ベスト10」と日曜の深夜に放送していた「全国ポピュラーベストテン」という番組で、私は当時の洋楽のヒット曲とたくさん出合いました。
加えて「ヘヴィメタルシンジケート」というハードロック/ヘヴィメタル(HR/HM)専門番組によって、HR/HMの世界に引きずり込まれました。

高校生になるとオールナイトニッポンなどの深夜番組の虜に。
ラジオの魅力は何といってもパーソナリティと1対1で話しているかのような親密性にあります。
話の中身はとてもじゃないけどテレビなどでは流せない過激な?ものだったりして(近年はコンプライアンスの関係で発言もかなり穏やかになっております)。
これらの発言も、結局のところリスナーとパーソナリティとの間に築かれた信頼関係のもとに成り立っているものです。
学生時代、一人暮らしの部屋でさみしさを埋めてくれたのもラジオでした。

その後、改めて日常的にラジオを聴くようになったのは東日本大震災の頃から。
震災直後は停電になったため、情報収集は電池式のラジオでした。
電気が復旧した後も、いつ緊急地震速報が鳴るか分かりませんので、寝る時もラジオをつけっぱなしで過ごしていました。

ラジオ放送開始当時、特に求められたのは、いち早く災害等の被害状況を伝え、救援活動につなげることでした。それは現在も変わりありません。
と同時に、正確な情報を伝えるラジオ放送が求められたそもそものきっかけは、関東大震災の際に流布されたデマにより引き起こされた悲劇を、繰り返さないためであることを忘れてはなりません。
SNS(X(旧ツイッター)など)が発達し、誰もが情報や主張を気軽に発信できる今、改めてその意義を考える必要があります。

情報発信者として、自らの発言に責任と覚悟を持てますか。

その“正義”、あなたは自分に向けることができますか。


今朝のお供、

Carpenters(アメリカのデュオ)の曲「Yesterday Once More」。

若かった頃ラジオを聴いていたんだ お気に入りの曲がかかるのを待ちながら
全ての曲や思い出が 今でも輝いている
まるで昨日のことのように

                              (司法書士 佐々木 大輔)

読書熱

昨年末から読書熱が再燃しておりまして、予定の無い休日は、日がな一日読書にふけっております。
欲すると出合いも多くなるもので、年始から良い本に出合うことができました。
また、先日はついに、ずっと気になっていたある作家の全集を、清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入してしまいました。
この全集については、いつになったら読破できるのかわかりませんが、少しずつ読み進めながら、時間をかけてじっくり楽しみたいと思います。

さて、最近読んだ作品の中で強く感銘を受けたのは、鈴木結生(ゆうい)著『ゲーテはすべてを言った』です。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、先日発表された第172回芥川賞受賞作です。

――ゲーテの専門家である主人公の大学教授が、レストランでたまたま目にしたゲーテのものとされる言葉。しかし彼は、それがゲーテの言葉であるかどうか、すぐにはわからない。自分の知らないゲーテの言葉。ゲーテ研究の第一人者であるとの自負のもと、彼は膨大な原典を紐解き、これまでの研究生活の記憶を総動員して、その言葉の出典を追究していく――

「言葉」とは何か。件のゲーテの言葉を探る過程で思索が深められていきます。
さらには同僚が起こしたある事件を通じて、創作や学問とは何かについても問題提起がなされます。はたして創造とねつ造、引用と盗用の境目はどこにあるのでしょう。

タイトルに「ゲーテ」なんて入っているし、難しいのかなと敬遠してしまいがちですが(私もちょっと身構えた)、読んでみるとミステリのような種明かしや伏線回収があったり、エンタメ小説としても楽しむことができます。
この辺りは作者がファンだという伊坂幸太郎さんの影響かな。

一方で、古今東西のさまざまな言葉が引用され、場合によっては衒学的(げんがくてき)とのそしりを免れない危うさもありますが、前述のようにエンタメ性とのバランスが絶妙であり、作品中に横溢する過剰なまでの知識でさえ、逆にこの作品のエンタメ性を増すためのしかけのようにも思えます。
引用によって物語を構築していくさまは、これも作者がファンだという大江健三郎さんの影響かな。

なお、タイトルの「ゲーテはすべてを言った」とは、例えば誰の言葉か分からない名言や、自分が思いついた格言めいた言葉に「ゲーテ曰く」と付け加えることで、その言葉の信ぴょう性や説得力が増すというドイツのジョークからとられたものだそう。

鈴木結生さんは大学院在学中の23歳。久しぶりに大型新人の登場という風格があります。
芥川賞にしても直木賞にしても、受賞作はたいてい読むようにしていますが、「これは凄い」と思える作品に出合えるのは数年に1冊くらいのものです(上から目線ですみません。好みの問題もありますので悪しからず)。

本作は三部作の2作目で、近いうちに完結編が発表されるとのこと。
その前に前作「人にはどれほど本がいるのか」を読まなくては。
でもまだ書籍化されていないんですよねえ(文芸誌『小説トリッパー』2024年春号に収録)。
早く書籍化されないかなあ。


今朝のお供、

Maroon 5(アメリカのバンド)の『Songs About Jane』。

                              (司法書士 佐々木 大輔)