秋田市にも少しずつ春が近づいてきたようです。春の陽気に誘われるように、先日モネの絵画を見たくなり、手持ちの画集をいろいろひっくり返し、モネの作品を探しました。
クロード・モネ。私が説明するまでもありませんが、印象派を代表する画家です。
「印象派」という言葉自体が生まれたのも、のちに「印象派」と呼ばれることとなる画家たちが開いた「第1回印象派展」―この時点では「印象派」という言葉はまだなく、「画家彫刻家版画家協会展」という展覧会だったそうですが―をたまたま見たある評論家が、出品されたモネの『印象―日の出』を引き合いに、「印象のままに描いた落書き」として展覧会自体を酷評したことがきっかけと言われています。
この酷評がかえって周囲の耳目を集め、「印象派」という言葉が広く知られるようになりました。しかし当の評論家も、この嘲りを含んだ悪名が、その後これほどまでに重要な意味を持つ存在になるとは想像もしていなかったでしょうけれど。
一方で、モネらもこの酷評を逆手に取り、自分たちは「印象こそを大切にして描いているのだ」として、自ら積極的に「印象派」を名乗ったといういきさつもあります。
それにしても、モネほど光を追い求め、作品に投影した画家はいないのではないでしょうか。
モネが戸外にイーゼルを立て、自然に身を置き風景を描いていたことはあまねく知られた事実ではありますが―持ち運び可能なチューブ入り絵の具の発明が後押しした側面もあるでしょう―、これは画期的なことで、当時は風景画も記憶やスケッチを頼りにアトリエで描かれるのが当たり前でした。
あふれるような光と自然に対する賛美を描いた作品を見ると、よく評されるように、実際にモネの制作現場に立ち会っているような気持ちに満たされます。
太陽の光の下で描かれたモネの作品は、長い冬を超え、暖かな日差しに焦がれる秋田の春に、喜びを重ねてくれます。
今朝のお供、
エド・シーラン(イギリスのミュージシャン)の『÷(divide)』。
流行の音であろうと、何であれ、良いものは良いのです。
(佐々木 大輔)
先ごろ読んだ小説の影響で、すっかりアンリ・ルソーに夢中になってしまいました。
ルソーの画家デビューは49歳と遅く、それ以前は税関に勤務しながら絵を描いていました。そのため、いわゆるアカデミックな教育を受けておらず、遠近法などの絵画技術を身に着けていなかったようです。
技術的に稚拙と言われる彼の作品は、当時の評論家から酷評され、無審査で応募者全員の作品が展示された展覧会では、新聞等での酷評を知った人々が作品の前に群れをなし、銘々お腹を抱えて大笑い、中には呼吸困難に陥った人もいたそうです。
しかし、晩年には、ルソーを評価する評論家や画家仲間も現れ、特にピカソに影響を与えたというエピソードは、間接的にルソーの評価を高める契機となりました。
とはいえ、未だ「日曜画家」「(画家ではなく)税関吏ルソー」などと揶揄されることも多く、その評価が定まっているとはいえません。
先に挙げた小説には、ルソー(と彼に関わった人々)のエピソードがふんだんに盛り込まれていて、ルソーを好きな方にはお馴染みの話でも、浅学な私にとっては初耳の話も多く、人間ルソーを知るきっかけとなりました。
ルソーの作品といえば、私にとって、『蛇使いの女』、『詩人に霊感を与えるミューズ』、『夢』など、ジャングルを描いた絵のイメージが強く、これらの作品を、「あの葉陰には見たこともないような気味の悪い生き物が潜んでいるのではないか」、「そんなじめじめとした茂みの中に、裸で体を横たえることに抵抗はないのだろうか」などとつまらぬ想像や心配をしながら、どこか怖いものみたさで鑑賞しているところがありました。
改めて作品を見てみると、ルソーは大好きな自然を克明に描くため、多種多様な緑色(作品によっては21種類も使用しているとのこと!)を使い分けており、その執念にも似た凄みが作品から伝わってきます。
もっとも、神秘的でグロテスクな作品という印象は変わらないけれど。
―情熱がある。画家の情熱のすべてが―
(原田マハ著『楽園のカンヴァス』)
登場人物が発したこの言葉のとおり、小説を読んでいる間、ルソーが絵にかけた情熱、その作品を心から愛する人々の情熱にほだされて、ルソーと時代を共にしたような、夢を見ているように幸せな時間を過ごすことができました。
夢から覚めた今は、時間ができると、手持ちの画集やインターネットからルソーの絵を探し出し、“夢をみた”余韻に浸っています。
今朝のお供、
Blur(イギリスのバンド)の『The Magic Whip』。
(佐々木 大輔)
最近、マーク・ロスコの画集を手に取ることが多くなりました。
ロスコは、生前、もっぱら人間の基本的な感情(悲劇、忘我、運命)を表現することに関心を寄せ、自分が絵を描くことは「自己表現ではなく他人に向けたコミュニケーションである」と定義していました。鑑賞者とのコミュニケーションを作品の根幹におくことから、鑑賞者の内面を映す鏡のような作品と評されることもあるようです。
ロスコの作品には、タイトルがついていないもの(『無題』と題されたもの)が多いため、「何が描かれている作品か」ということを推測する手掛かりがありません。一方で、タイトルが無いことは、作品の見方を限定されずに鑑賞できるという利点もあります。
海外では、悲劇性が強調されて受けとめられることもあるとのことですが、私の場合、ロスコの作品を観ることで、意識が自己の内なる深淵へとゆっくりと導かれ、自分を見つめ直すきっかけとなり、その結果、様々な物事や感情が整理されて心が穏やかになっていくことに魅力を感じます。
ある本には、「多くの人は、ロスコの作品を右脳で鑑賞しているようだ」と書かれていました。
言語や論理をつかさどる左脳と、感覚や感情をつかさどる右脳。
とすれば、ロスコの作品は、日々文章と向き合う仕事をしている私にとって、理屈から感性へ、仕事脳からプライベート脳へ、スイッチを切り替えてくれる効果があるのかもしれません。
千葉県佐倉市にある川村記念美術館には、ロスコの『シーグラム壁画』と呼ばれている作品群のうち、7点が収蔵されています。
『シーグラム壁画』は、もともと、「最高の料理と現代アートをともに提供する」というコンセプトで創設されたレストランから、ロスコが一室の装飾を依頼されて作成したものでした。
ところが、レストランの雰囲気に幻滅したロスコが、契約を破棄してしまったため、これらの作品群は一旦お蔵入りとなってしまいます。
その後、9点がロンドンのテイト・ギャラリー(テイト・モダン)に寄贈され、1990年には川村記念美術館が7点を購入したことにより、これらの作品群を鑑賞することができるようになりました(残りはワシントンDCのナショナル・ギャラリーなどが所蔵)。
テイト・モダンと川村記念美術館では、これらの作品群のために、ロスコが望んだとおり、ロスコの作品のみを展示した一室を設けています。
ロスコ作品のみが飾られた空間を持つ美術館は、上記の美術館をあわせても、世界でたった4つだけです。
いつかこれらの美術館を巡る旅をしてみたいものです。
※本文の情報は、私の所有している海外版の画集や書籍から得たものであり、もしも誤りがあるとすれば、その全ては私のつたない語学力に起因するものであることをお許しください。
今朝のお供、
SEKAI NO OWARI(日本のバンド)の『Tree』。
久しぶりに現れたヒットチャートを駆け抜ける若いバンドにワクワクしています。
青さも感じるけれど、求める音に対してはもっと尖っていけばいい。
(佐々木 大輔)