新年

あっという間に月末ですが、今年もよろしくお願いいたします。

気がつくと1月ももう終わり。今年も12分の1が過ぎていきます。決してボーっと生きていたわけではないのですが、今日が何日で何曜日かも忘れちゃうような毎日を過ごしております。

誕生日プレゼントに頂いたスパークリングワインもまだ開けることができず、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートも録画したまま未視聴。これはせっかくなので頂いたスパークリングワインを飲みながら視聴したいものです。
今年の指揮者はアンドリス・ネルソンス。私と同い年。現在ウィーン・フィルと最も親密な関係を築いている指揮者と言われています。
今年生誕250年のアニヴァーサリーイヤーであるベートーヴェンの楽曲が演奏されるなど、例年のニューイヤーコンサートとは一味違ったプログラムとなっているとのこと。すでに視聴されたクラ友(クラシック音楽好きの友人)さん達の評判も上々のようなので、ますます楽しみ。

そういえば、先日、久しぶりにお店でCDを購入しました。しかも私にしては珍しくジャズのCDを。普段はレコードばかりをインターネットで購入しているので、直接CD屋さんに行くのも久しぶり。しかしながらその品揃えは寂しい限りで・・・。デジタル配信全盛の今にあっては仕方ないのでしょうね。時代の移り変わりを感じ、少し悲しい気持ちで帰路につきました。

ほかにパッと思い出せるのは、手帳用に使用している万年筆のインクを入れ替えたことくらい(毎年恒例?今年の色はパイロットの色彩雫「山葡萄」にしました)。
あ、もちろん、今月のシーガルクラブにて、秋田今野商店(麹菌の製造販売)の今野社長様から伺ったレクチャーの内容はしっかり覚えています。

美術館を巡ったり、花鳥風月を愛でたり、チコちゃんに叱られてもいいから、たまにはボーっと過ごしてみたい。

今朝のお供、
アート・ペッパー(アメリカのジャズミュージシャン)の『Art Pepper Meets the Rhythm Section』。

                                   (佐々木 大輔)

カズオ・イシグロに関する(ごく控えめな)考察

作家カズオ・イシグロについては、当ブログで過去2回ほど取り上げておりますが(No.59No.165)、先日、文学博士の方とカズオ・イシグロについてお話をする機会があったことから、『浮世の画家』という小説を題材に再度カズオ・イシグロを私なりに読み解いてみます。

ノーベル文学賞を受賞した際、改めて彼の作品を読み直し、最も興味を持ったのが『浮世の画家』でした。
まず、タイトルの「浮世」という言葉について。
「浮世」には、「現実の世界」という意味と「享楽的な世界(強いて言えば非現実)」という意味があります。それでは、本作品における「浮世」とは、「現実」なのか「非現実」なのか。
原題は『An Artist of the Floating World』。“Floating World”であれば、「非現実」の意味であろうというのが私の初読時の解釈でした。

それでは、初読時に残した私の読後メモを以下に記します。
―主人公である老画家小野益次が語り手。
若き日の小野は、戦時下においても享楽的な美を追求する「浮世の画家」であった師匠と決別、現実を見据えた(つもりで)愛国主義を標榜し、「現実の画家」として評価を得た。
しかしながら、戦後は、その過去の栄光と戦争に加担したという良心の呵責との板挟みに苦しむ晩年を送っている。
ところが、最後に明らかとなるのは、小野の思うところとは異なり、実際は彼の作品が現実社会に影響を与えたという事実はなく、結局、厳しい戦時下においては当の小野も「浮世の画家」でしかなかったという皮肉。
所詮、芸術とは、良くも悪くも現実の前にかくも無力なものなのか―

最初の長編『遠い山なみの光』や代表作である『日の名残り』同様、『浮世の画家』でも戦後の転換(パラダイムシフト)に戸惑う旧世代と現役世代の対比が鮮やかに描かれています。
そこで今回再読するに当たり、改めて原題の“Floating World”の意味を考えてみました。
直訳すると「浮動する世界」。
そうであれば、現実・非現実、主人公・師匠の二項対立でとらえるよりも、「移ろいやすい世界」ととらえる方がより適切とも思えます。
「浮世の画家」とは主人公も師匠をも含めた「移ろいやすい世界に生きるすべての画家」のことであり、すなわちそれは私たちの生き方に敷衍されるもの。

諸行無常。
価値観は時代によって大きく変わります。とかく変化の目まぐるしい現代において、自分の信じるものや拠り所を失ったとき、人はどのように立ち振る舞うのか。そして再生していくのか。
カズオ・イシグロが突きつけるテーマは、移ろいやすい世界に生きる私たちにとって普遍的な課題であります。

最後に。すぐれた文学は多様な読み解きが可能です。
以前にも当ブログで引用したように、「文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えてくるという世界」(立花隆)であり、文学を読むことは、物事を多角的に見る眼を養うことにもなるのです。

今朝のお供、
Weezer(アメリカのバンド)の『Pinkerton』。

                                   (佐々木 大輔)

冬がはじまるよ

はらはらと舞う雪が、秋田市にも冬の始まりを告げました。
私は(何度も言っていますが)夏よりも冬の方が好き。理由はいろいろですが、ひとつにはファッションの楽しみがあります。

冬は寒い分、重ね着をして過ごすことになるわけですが、手持ちのボルドー色のジャケットにイエロー色(あるいはマスタード色)のニットを合わせてみようかなとか、いつものトレンチコートに今年はこのマフラーを合わせてみようかなとか、組み合わせを考えるだけでワクワク。

そして冬は、何と言っても私が愛するレザージャケット達の季節でもあるのです。
中には人生の半分?をともにしたようなジャケットもあります。
先日、あるお店の店員さんとお話をしていて、私が「学生時代に買ったレザーのテーラードジャケット、未だにきれいに着られるんですよ」と言ったところ、「自分で着込んで体に馴染ませた服は、“流行”を意識しすぎず、自分だけのヴィンテージとして着続ければいいんじゃないですか」とのこと。まさに我が意を得たりと膝を打ったものです。
世の中には、古着屋さんでヴィンテージ物を探し、自分なりのおしゃれを楽しんでいる人がたくさんいる中、自家製ヴィンテージこそ(プレミアがつくような高価なものではなくても)一番の宝物であるというのが私の思いです。

件のテーラードジャケットは、流行からすると着丈が少し長め。だからといって、今風に着丈を短く詰めるつもりはなく、近年は“着丈が短いコート”として袖を通しています。
ただし、ストールのような小物、合わせるシャツやニットなどによって、up-to-dateさせることは必須。この匙加減がまた面白いのです。

若い頃はアヴァンギャルドな格好もしましたが、不惑を過ぎ、最近はクラシカルなデザインのものに惹かれるようになりました。
身も心も少し落ち着いてきたのかな。

最後に、おしゃれについての金言をひとつ。
おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかもしれません。
―太宰治著「おしゃれ童子」―

今朝のお供、
THE YELLOW MONKEY(日本のバンド)の曲「アバンギャルドで行こうよ」。
あれ、選曲を間違えたかな?
でも、若いころの気持ちも忘れずに。

                                   (佐々木 大輔)