カズオ・イシグロに関する(ごく控えめな)考察

作家カズオ・イシグロについては、当ブログで過去2回ほど取り上げておりますが(No.59No.165)、先日、文学博士の方とカズオ・イシグロについてお話をする機会があったことから、『浮世の画家』という小説を題材に再度カズオ・イシグロを私なりに読み解いてみます。

ノーベル文学賞を受賞した際、改めて彼の作品を読み直し、最も興味を持ったのが『浮世の画家』でした。
まず、タイトルの「浮世」という言葉について。
「浮世」には、「現実の世界」という意味と「享楽的な世界(強いて言えば非現実)」という意味があります。それでは、本作品における「浮世」とは、「現実」なのか「非現実」なのか。
原題は『An Artist of the Floating World』。“Floating World”であれば、「非現実」の意味であろうというのが私の初読時の解釈でした。

それでは、初読時に残した私の読後メモを以下に記します。
―主人公である老画家小野益次が語り手。
若き日の小野は、戦時下においても享楽的な美を追求する「浮世の画家」であった師匠と決別、現実を見据えた(つもりで)愛国主義を標榜し、「現実の画家」として評価を得た。
しかしながら、戦後は、その過去の栄光と戦争に加担したという良心の呵責との板挟みに苦しむ晩年を送っている。
ところが、最後に明らかとなるのは、小野の思うところとは異なり、実際は彼の作品が現実社会に影響を与えたという事実はなく、結局、厳しい戦時下においては当の小野も「浮世の画家」でしかなかったという皮肉。
所詮、芸術とは、良くも悪くも現実の前にかくも無力なものなのか―

最初の長編『遠い山なみの光』や代表作である『日の名残り』同様、『浮世の画家』でも戦後の転換(パラダイムシフト)に戸惑う旧世代と現役世代の対比が鮮やかに描かれています。
そこで今回再読するに当たり、改めて原題の“Floating World”の意味を考えてみました。
直訳すると「浮動する世界」。
そうであれば、現実・非現実、主人公・師匠の二項対立でとらえるよりも、「移ろいやすい世界」ととらえる方がより適切とも思えます。
「浮世の画家」とは主人公も師匠をも含めた「移ろいやすい世界に生きるすべての画家」のことであり、すなわちそれは私たちの生き方に敷衍されるもの。

諸行無常。
価値観は時代によって大きく変わります。とかく変化の目まぐるしい現代において、自分の信じるものや拠り所を失ったとき、人はどのように立ち振る舞うのか。そして再生していくのか。
カズオ・イシグロが突きつけるテーマは、移ろいやすい世界に生きる私たちにとって普遍的な課題であります。

最後に。すぐれた文学は多様な読み解きが可能です。
以前にも当ブログで引用したように、「文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えてくるという世界」(立花隆)であり、文学を読むことは、物事を多角的に見る眼を養うことにもなるのです。

今朝のお供、
Weezer(アメリカのバンド)の『Pinkerton』。

                                   (佐々木 大輔)