皆さん、筆記用具は何を使っていますか?
私は日常業務において万年筆を使っています。
また佐々木のレトロ趣味が始まった、と言わないでくださいね。
なお、私は万年筆(及び文房具)に詳しいわけではありませんので、ここから先、あまり深い話は期待せずにお読みくださいますと幸いです。
万年筆を使うようになったのはここ10年くらい。興味をもって数本購入してみたものの、最初のうちは使う頻度もそれほど高くなく、しばらく放っておいて久しぶりに使おうと思ったらインクが固まっていたということもよくありました。その後も使ったり使わなかったりの繰り返し。
そんな私が日常的に万年筆を使うようになったのは、今から数年前、あるご年配の女性に委任状を書いてもらったことがきっかけでした。記入に当たってボールペンをお貸ししようとしたところ、「字を書くのにあまり力が入らないので、使い慣れたペンで記入したい」とおっしゃられたので、「どうぞ」と促したところ、バッグから万年筆を取り出し、丁寧に必要事項を書いてくださいました。
その姿があまりに素敵だったものですから、思わず、「ちょっと万年筆をお借りしてよろしいですか」とお願いをして、試し書きをさせていただきました(本当は他人の万年筆を借りるのはマナー違反です)。
大切に使い込まれた万年筆。それは国産メーカー王道の万年筆でした。その書き心地といったら、まるで雲の上を歩いているかのようなふわふわ感。あまりの気持ちよさに卒倒するかと思いました(いや、本当に)。
万年筆は使い込むほどにペン先が馴染み、その人だけのペンに育っていくと言われていますが、まさにこのことかと納得。
そして何より国産万年筆の質の高さよ!
そこで、引出しの中で眠っていた国産メーカーの万年筆(その女性の万年筆とは別メーカーのものですが)を叩き起こし、その日以来、毎日業務で使っています。比べると私の万年筆は少しカリカリとした感触があります。
もちろんメーカーが違えば、ペン先の感触、書き心地は全く違い、どちらが良いというものではなく好みの問題ですが、使い続けてみて、長時間の筆記には、ある程度カリカリとした感触があった方が疲れにくく書きやすい気がしています。
でもあのふわふわな書き心地は忘れられない。
そして最近、これまたずっと使っていなかったイタリア製の万年筆にインクを入れてみたところ、いつも使っている国産万年筆とは違うなめらかな書き心地で、こちらも日用候補に再浮上。
目下の悩みはこの2本の万年筆をどのように使い分けていくかという問題です(週替わりで使うとか・・・)。
せっかくだから、どちらも日常的にしっかり使い込みたい。
とこんな感じで2本の万年筆の使い分けに悩みつつ、実はもう1本、王道中の王道の万年筆が欲しくて欲しくてたまらない今日この頃。
私の煩悩は108で足りるのか?
今朝のお供、
花*花(日本のミュージシャン)の曲「さよなら大好きな人」。
名優の訃報に接してから頭を離れません。
(佐々木 大輔)
不安の時代(The Age of Anxiety by L.Bernstein)だからでしょうか。
マーラーの音楽を渇望します。
マーラーは1860年に生まれ1911年に亡くなりました。
今から10年前、2010年から翌11年にかけてはマーラーの生誕150年と没後100年が続き、世界中でマーラーの音楽が演奏されました。新録音はもちろん、往年の名盤、発掘された幻の名演などがCDでも次々とリリースされ、それこそ10年はマーラーの音楽を聴かなくてもいいと思うくらい、どっぷりと浸かりました。そして本当に以後10年程、私がマーラーの音楽を積極的に聴く機会はほとんどなくなったものです。
その昔、私にとってマーラーは、なかなか親しくなれない、だけど気になる存在でした。
実家にも(親が買ったであろう)名盤と呼ばれるマーラーのCDが何枚かあり、中高生時代に何度か挑戦してみたものの、毎回、最初の楽章すら聴きとおせずに、途中で停止ボタンを押していました。聴きやすいと言われる交響曲第1番でさえ、第1楽章だけで20分もあるのですから。それでも、定期的に挑戦する気になったのは、やはり無視できない何かがあったのでしょう。
そんなある日、ラジオから、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲第5番が流れてきました。何とは無しに聴いていたはずが、曲が進むにつれ、気が付くと頬に涙が溢れていたのです。この演奏が私に運命の扉を開いてくれました。
調べてみると、1997年6月12日の定期演奏会がNHK-FMで生中継されたもの。
同年は、神戸連続児童殺傷事件が起こるなど、世の中に不安が満ちていた時期でした。そして私にとって、音楽を含むエンターテインメントに対する希望を失いかけていた辛い時期でもありました。
この日の演奏が、いわゆる名演であったのか私にはわかりません。しかし、マーラーの音楽の持つエネルギーに撃ち抜かれた私は、翌日、開店と同時にCD屋さんに駆け込み、世紀の名盤と誉れ高いレナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル(87年録音)による同曲のCDを購入しました。
帰宅後、胸の高鳴りが収まるのも待たず、封を切るのももどかしい思いでCDをプレーヤーのトレイに乗せ、スタートボタンを押すと、冒頭の重苦しいトランペットの響きから、世界の底を覗き込んだような恐怖が全身を襲います。苦しくなって、途中で何度も停止ボタンを押そうとプレーヤーに手を伸ばしかけると、そのたびにバーンスタインから「目を(耳を)背けるんじゃない」と叱咤され、必死に音楽を直視。情念の渦にのまれ、もがきながら、最後まで聴き通しました。
凄絶な体験。
失いかけた希望の光も残りました。
ただし。私にとって特別すぎるこのCDは、あの日以来、一度も聴くことができません。
今朝のお供、
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによる演奏でマーラーの交響曲第5番。
ラトルがベルリン・フィルの音楽監督就任した際の記念コンサートにおける演奏で、バーンスタイン的情念型の演奏こそ正統派という呪縛から、私を解き放ってくれた演奏です。
(佐々木 大輔)
以前も当ブログで書きましたが、我々も業界用語的なものを使うことがあります。
「物」(もの)と「者」(もの)を区別するために「物」を「ぶつ」と言ったり、「権限」(けんげん。権利・権力の範囲)と「権原」(けんげん。権利の発生する原因、法的根拠)を区別するために「権原」を「けんばら」と言ったり。
これと似たような話で、依頼人に何かを説明するとき、登場人物をAさんBさんなどとアルファベットを使って説明することがあるのですが、そんな時私は、アルファベットのBとDとの聞き間違いを防ぐため、Dを「ディー」ではなく「デー」と発音します。
このDの発音について、私はその昔、「デー」と発音したらおじさんおばさんである証拠(ものすごい偏見ですみません)みたいに思っていた時期がありました。
当時は中学校に入学して初めて英語を習うわけですが、そのぶん英語は5教科の中で特別な存在でした。自意識過剰な中学生にとっては、発音が悪いのも良すぎるのもカッコ悪く思えるなど、変に目立ちたくないような(でも試験では高得点を取りたい)複雑な思いを抱くやっかいな存在だったのです。きっとこのジレンマは私だけではなかったはず。
さすがに英語の先生は違いましたが、英語担任以外の年配の先生(度々失礼)が「デー」と発音する度、私は、年を取ってもDを「デー」と発音する大人にはなるまい、と固く心に決めたものでした。
そんなある日、音楽の先生が授業中、Dを「デー」と発音したんです。案の定クラスにくすくすと笑いが漏れる中、先生が、「みんな笑ってるけどね、ドイツ語ではDをデーと発音するんだよ」と、外国語といえば英語が全てのような世間知らずで幼稚な我々に、直球で第二外国語を投げ込んできたんです。
実に堂々とした先生の一言は、私にとって非常に説得力を持ちました。私の固いはずの決心は、あっけなく打ち砕かれたのです。
あの日以来、すぐにDを「デー」と発音することに抵抗がなくなった・・・とまでは言いませんが、今では説明にアルファベットを使用する場合、Bと区別してDを「デー」と発音することに何の抵抗もありません。もはや気分はトリリンガルです。
いや、ただ単に私も、Dを「デー」と発音することに抵抗がないほど年を取っただけかもしれませんけどね。
そんな思い出話を、講師依頼を受けた来月のセミナーの原稿を書きながら、懐かしく思い返していました。
今朝のお供、
THE YELLOW MONKEY(日本のバンド)の曲「BURN」。
(佐々木 大輔)