夏がくれば思い出す

受験生だった年の夏、手にした一冊の本。

――君たちは大江健三郎を読んだことがありますか――

受験対策で通っていた予備校の夏期講習中、講師からの問いかけに、「ノーベル賞記念講演における『あいまいな日本の私』くらいは目を通したことがあったかなあ」などとぼんやり考えていると、その頭の中を見透かしたかのように講師は、「私が言っているのはエッセイや講演の書起しのたぐいではなく、小説のことです」と言葉を継ぐ。

講師の問いかけに導かれるように本屋さんへ行き、新潮文庫の茶色い背表紙が並ぶ中から手にしたのが『死者の(おご)り・飼育』でした。芥川賞受賞作「飼育」を含むデビュー当時の短編が収められた一冊です。最初に読んだ時はよく理解できず、今でも理解できているとは言い難いのですが、改めて読み返してみると、過剰なほど濃密な表現に満ちていることに驚きます。「飼育」における夏のまとわりつくような熱気とむせ返るようなにおい、むき出しの暴力やグロテスクな性。そのすべてが五感を強烈に刺激します。本当にこれが学生(当時、大江氏は東大生)の手による小説なのか。

一方、同作中で、少年期を<硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔らかく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄えながら剥がれてしまう甘皮のこびりついた青い種子なのだった>とする繊細な表現には、初読の時から魅了されました。

1994年、私が高校2年生の時、川端康成に次いで日本人として2人目のノーベル文学賞受賞者となった大江氏。

ノーベル賞受賞後、『燃えあがる緑の木』を完成させ、小説の筆を折ることを宣言したものの、親友であった作曲家武満徹が亡くなると、その弔辞の中で、新しい小説を捧げることを約束、引退を撤回(本人曰く「宙返り」)し、3年をかけて『宙返り』を発表しました。これは、すでに大江氏の過去作品を読み進めていた私にとって、リアルタイムで接した初めての新作小説でした。

以降、『取り替え子(チェンジリング)』や『(ろう)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』など、大江氏本人が“後期の仕事(レイト・ワーク)”と称し発表してきた小説は、できる限りリアルタイムで読んでいます。

レイト・ワークにおける大江氏の文章は非常に読みやすく、翻訳調で難解な文体からは、大きく変容しました。

評論家江藤淳が「論理的な骨格と動的なうねりをもった」と評した大江氏の文体は、時に悪文の見本と揶揄されることもあります(要するに一文がだらだらと長い)。しかし、大江氏の文体は、「正確に伝える」という点において必然であり、一度書き上げた小説を、その2倍から3倍もの時間をかけて、より正確に伝わるよう徹底して書き直した結果なのです。

「イメージを喚起させ作者の意図が正確に伝わる」という意味では悪文ではありません。

ただし、大江氏自身にも自覚はあるようで、書き直すたびどんどん文章が読みにくくなると自虐的に語っています。

レイト・ワークにおける作品群では、大江氏の特徴的な文体と読みやすさが融合しており、初心者でも抵抗を感じることは少ないと思われます(理解が容易かどうかはまた別の話)。

しかし、本気で大江文学と格闘するなら中期の作品、後の大作家の萌芽を感じたいのであれば初期の作品と向き合ってみるのはいかがでしょう。

私は今秋、初読時に理解の及ばなかった『宙返り』に再挑戦する予定です。


ろうたし:上品で美しい。洗練されている。


今朝のお供、

スピッツ(日本のバンド)の曲「渚」。

                                   (佐々木 大輔)