カテゴリー「本・文芸」の記事

揺らぐ常識

「普通」とは何でしょう。よく言われるように、平均値の人間はどこにも存在しません。目に見えない、存在するかどうかも怪しい、多数による暗黙の合意でしかない「普通」。多様性が求められる現代において、個性的であるかどうかは「普通」を基準として判断されるため、かえって個性よりも「普通」とは何かが問われることとなります。

こんなことを考えさせられたのは、先日、村田沙耶香著『コンビニ人間』を読んだため。
数年前、芥川賞を受賞し話題となったことから読まれた方も多いかと思います。

――主人公の古倉恵子は、30代半ばの現在に至るまでコンビニでのアルバイトを続けている。幼い頃から変わり者であった古倉は、マニュアルに沿ってコンビニで働いている間のみ社会の一員として「普通の人間」でいることができる。しかし、30代半ばで定職についていない、結婚もしていない、彼氏もいない古倉に対し、周囲からの干渉は日毎に増していく。そんな中、新しく男性バイトの白羽が入ってくる。いつか起業するとうそぶき、周囲の人間を見下し、古倉の生き方を「恥ずかしい」として否定する白羽。そんな彼も、実は社会の求める「普通」に適合できないことにコンプレックスを抱えていた――

この白羽という人物がまた曲者で、クズっぷりが凄まじく、読んでいて本当に腹が立つのですが、彼の言動にイライラすること自体、私も普通とか常識とか当たり前といったものに自分が染まっている証左なのではないか、と思ったりもします。

『コンビニ人間』は150ページ程度。しかも純文学特有の持って回ったような表現を使わず平易な文章で書かれていて読みやすい。にもかかわらず、読み終えた後には、正常と異常の境目に立たされたような眩暈(めまい)を覚えるほどのショックを受けました。

もう一冊。こちらはもう、あまりにも有名な三島由紀夫の『仮面の告白』。太宰派を自認する私としては、三島作品には縁遠いのですが、『コンビニ人間』の読了を契機に手に取りました。三島の文章が明晰であるがゆえ、主人公である「私」の素顔と社会の求める「正常」との隔たりが、冷酷なほどに際立っています。

両作品の主人公とも普通の(正常な)人間になろうと、異性を好きになってみたり、同棲を始めてみたりと試みる姿を見るにつけ、三島の苦悩もコンビニのアルバイト店員の苦悩も、「普通」ではない者のアイデンティティー(あるものがそれとして存在すること。本人であること)という部分において根源的には同じなのだ・・・なんて一括りにしてしまうと、文学ファンからは「何もわかっていない」とお叱りを受けそうですが。

今朝のお供、
Manic Street Preachers(イギリスのバンド)の『The Holy Bible』。

                                   (佐々木 大輔)

カズオ・イシグロ

―強い感情的な力を持つ小説を通し、世界とつながっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた―

今年のノーベル文学賞は、カズオ・イシグロ氏が受賞しました。
昨年のボブ・ディランというサプライズ選考に対し、今年は正統派の作家を選考することでバランスをとった結果と言えるかもしれません。
“配慮”のほどはともかくとして、イシグロ氏は私にとって大切な作家のひとりであり、以前も当ブログで少し触れましたが(No.59)、静謐で端正な筆致に心を惹かれます。

ちょうど今夏、彼の代表作である『日の名残り』を再読したところでしたので、読後メモそのままにあらすじを紹介します。
―執事スティーブンスが語り手となり、忠誠を誓ったダーリントン卿の姿を通して、先の大戦を契機に変わりゆくイギリスを描く。イギリスの栄光は過去のものとなり、夕陽とともに海に沈む。スティーブンスが徳としてきた品格も、その人生を省みたときもっと大切なものがあったのではないか。女中頭ミス・ケントンの女心に気づくことができず、執事であることを理由に世界の趨勢からもあえて目を背けてきた人生。しかしスティーブンスは最後に新しい時代への一歩を踏み出す―

彼の作品の特徴は「記憶」。
『日の名残り』も、人生の黄昏時を迎えたスティーブンスの記憶に基づく回顧録です。「信頼できない語り手」による作品としても有名です。
ダーリントン卿に仕えた日々は、スティーブンスにとって人生の全てであったでしょうから、それを否定することは自身の人生を否定することになります。自身の人生を肯定するためにも、スティーブンスはダーリントン卿に仕えた日々の記憶を美しくとどめておく必要がありました。
しかし、物語の最後、スティーブンスは自身が記憶する栄光の日々と現実との違いに直面します。それでもスティーブンスは、絶望し嘆き悲しむのではなく、海に沈む夕陽を前にひとしきり涙を流した後、新たな一歩を踏み出す決意をするのです。

冒頭に引用した言葉は、スウェーデン・アカデミーが発表したイシグロ氏の選考理由です。
思うに、意識的か無意識的かに関わらず取捨選択された「記憶」によって構築された世界を生きる我々に、目を背けてきた事実と向き合わざるを得ない瞬間が訪れた時、記憶という曖昧な覆いは剥がされ、むき出しとなった真実の世界が姿を現します。そして我々が拠り所としてきた記憶の世界とは、幻想であったことを知るのです。
イシグロ氏は、普遍的なテーマとして「人は真実を語らない」ということを問い、読者に対し「あなたは何から目を背けてきたのか」と物事に対する向き合い方を問う作家であるというのが、選考理由に対する私の解釈です。

ところで、蛇足ながらマスコミの皆さん、毎年繰り広げられる「村上春樹、受賞を逃す」という報道はいかがなものでしょうか。寡聞にして私は、村上氏本人による「ノーベル賞を狙っています」との発言を聞いたことがありません。また、文壇の裏話によると、本当にノーベル賞が欲しければ相応の“振る舞い方”があるものの、村上氏にはどうやらそのような業界ルールに従うつもりはないらしいとのことです。
耳目を引く話題なので毎年このような見出しが躍るのでしょうが、的外れ感が否めませんし、私からすれば、文学に理解や思い入れのない記者(お金のため?)、あるいはアンチ村上氏の記者が書いているものとしか思えません。

 

今朝のお供、
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース(アメリカのバンド)の『SPORTS』。
                                   (佐々木 大輔)

村上春樹の物語とメタファー

―村上春樹とは、読む度、好きと思ったり嫌いと思ったり、アンビバレント(愛憎こもごも)な感情を抱く存在である―

今年2月に発表された村上氏の『騎士団長殺し』を読む準備運動として、村上氏の初期作品『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』(以上、青春三部作)を再読しました。村上氏の作品は、大学生の頃に初めて読んで以来、折に触れて読み返しています。

今回の再読で最も考えさせられたのは、青春三部作の中では人気も世評も控えめな『ピンボール』。「僕」と双子の姉妹との日常、そしてデビュー作『風の歌』から続く「鼠」との友情を描いた作品です。双子の姉妹がどこからかやってきて、どこかへといなくなってしまったように、「僕」は物事に執着することなく、ただ事実を受け流します。一方、「鼠」は街を出ていくことを決意します。
「鼠」は「僕」の分身であり、社会にコミットメント(関与)出来ないでいる「僕」が生み出した「僕のあるべき姿」ではないか、と私は考えます。

一般的に村上作品の登場人物は、物事にかかわりをもたず無関心であること(デタッチメント)を特徴とし、それが人間関係や社会に縛られたくないと思っている人々の共感を呼んでいるところもあるかと思うのですが、私が、「僕」は社会にコミット「しない」のではなく「出来ない」のだと感じるのは、本作における「鼠」の決断に至る葛藤が、失うことを恐れて決断出来ない「僕」の葛藤として映るからです。「僕」自身、変わらなければならないことを分かっているんじゃないのかな。

実際、村上作品は、『ねじまき鳥クロニクル』で「デタッチメントからコミットメントへの転換」があり、その姿勢は、地下鉄サリン事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』、阪神大震災を契機とした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に顕著です。

このような過去の作品とのつながりも考えながら、いよいよ最新作『騎士団長殺し』に突入。
果たして村上氏が本作で紡いだ物語は魅力的であったでしょうか。
残念ながら私は楽しめませんでした。それゆえ「私の好まない村上春樹」ばかりが目に付いてしまったようです。
謎の美少女、(井戸のような)穴と壁、都合のいい女性、お酒と料理と音楽・・・いつものレギュラーメンバー。
私の方が「やれやれ」と言いたい。
これらの「メタファー」を読み解くことが村上作品を読む楽しみであることは理解できます。しかし、その謎解きを楽しめるほど夢中になれなくなったのは、私が社会にコミットする立場にあり、(デタッチメントを脱したとはいえ)社会性の乏しい登場人物らに共感できなくなってしまったからかもしれません。

とはいえ、以上はあくまでも「物語」についての感想。
本作を通じて村上氏は何を語りたかったのか。
これについては私なりに感じるところがあり、深く考えさせられたことも事実。だからこそ、冒頭のアンビバレントな感情を抱きつつ、村上氏の作品から目が離せないのです。

 

今朝のお供、
ショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏によるR.シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』。

(佐々木 大輔)