聞いてびっくり、考えて納得。
今年のノーベル文学賞をボブ・ディラン(アメリカのミュージシャン)が受賞したとのニュースに接した時の私の正直な感想です。
ミュージシャンによる文学賞受賞は史上初であり、受賞に対する賛否は当然にあるでしょう。
それにしてもノーベル文学賞の英断、ロックだな。
私はディランの熱心なファンというわけではありませんが、中学生の頃から耳にしてきた彼の作品について、今回のブログでは、音楽ではなく、文学の側面から少し考えてみましょう。
まず、今回の受賞により、ノーベル文学賞の選考対象が、ポピュラー音楽の歌詞(lyrics)にまで拡大されるきっかけとなるのでしょうか。
「文学」の定義にもかかわることですが、同賞の公式サイトによると、「どのような書式や文体で書かれたものであっても、文学的な価値をもつもの」が受賞の対象となるとされています。スウェーデン・アカデミーが発表したディランの受賞理由も、「偉大なるアメリカ音楽の伝統の中で、新たな詩的表現を生み出した功績による」とのことでした。
これは、ディランの創作活動に対し、純粋に文学的価値を認めた結果ということでしょう。
今回の受賞―文学者をさしおいてミュージシャンが受賞すること―への批判に対する最もまっとうな反論は、「詩は、古くは詩人ホメロスの時代から、朗読され、演じられてきた」というもの。
ディランは、詩(poem)の伝達手段として、朗読や演じることではなく、「音楽に乗せる」ことを選択したのです。現代の吟遊詩人と呼ばれるゆえんです。
つまり、今回の受賞は、格調高き文学賞が大衆にすり寄ったわけではなく、むしろ伝統に根差した選考によるものと言えるのであり、選考対象が拡大することになって「時代は変わる」(The Times They Are a-Changin’)ものではないと考えます。
私がディランの作品の中で特に優れて文学的と感じるのは、「見張塔からずっと」(All Along the Watchtower)です。
見張塔から馬に乗った男が来るのが見えた時、堕落したバビロンが崩壊したことを知るという『聖書』のエピソードをモチーフに、体制に対する抵抗、革命を予感させるメッセージを、直接的な言葉を用いずに訴えかける曲です。
一見(一聴)意味不明なディランの詩にも、じっくり向き合うと瞠目する含蓄があります。
今回の受賞について、そしてディランについてはこれまで以上に、評論家や研究家によってさまざまな分析がなされることでしょう。
結局のところ、本当の答えは風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)いるのかもしれませんが。
今朝のお供、
ボブ・ディランの『Street Legal』。
地味なアルバムかもしれませんが、5曲目(アナログ盤B面1曲目)の「Is Your Love in Vain?」がたまらなく好きです。
(佐々木 大輔)
この夏、しばらく故障したままになっていた自室のCDプレーヤーを思い切って新調したことをきっかけに、手持ちのCDをとっかえひっかえ聴いています。
プレーヤーが新しくなると、プラシーボ効果かもしれませんが、聴き馴染んだCDも新鮮に聴こえます。
今回は、改めて聴き直しても良い演奏だなと思ったものをいくつか紹介します。
まず1枚目は、フルニエの演奏によるJ.S.バッハ作曲『無伴奏チェロ組曲全曲』。
「チェロの貴公子」と呼ばれたフルニエの落ち着いたチェロは、秋の夜に聴くにはぴったりの音色です。
有名曲ですのでこの曲には数多くの録音が存在しますが、フルニエの演奏は、1960年に録音されてから50年以上経った現在でも、この曲を代表する名盤の地位を譲る様子はありません。
あまりにも定番すぎて、かえって最近は手に取る機会の少ない演奏でしたが、今回、気持ちも新たに聴いてみると、気品はもちろんですが、新しいプレーヤーのおかげか、弦を押さえるフルニエの指の力がリアルに伝わってきて、気品以上に「たくましさ」を感じました。聴き進むと、そのたくましさはやがて父性を湛えた優しさへと姿を変え、やすらぎに満ちた慈愛で聴く身を包んでくれます。
もう1枚は、マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるショスタコーヴィチ作曲交響曲第7番『レニングラード』。
この曲が作曲された背景について一言触れておきますと、1941年6月、ナチスドイツの侵攻により多くの犠牲者を出したレニングラードでの壮絶な攻防の中、作曲者自身も命の危険にさらされながら、民衆の抵抗する姿や犠牲者への鎮魂を込めて書かれた作品です。
ところがここでのヤンソンスは、上述の背景にこだわり過ぎず、純音楽としての演奏に徹している感があり、そのぶん第1楽章の行進曲には若干の物足りなさを感じますが、第3楽章の深い祈りは言葉を失うほどの美しさです。
私個人としては、ショスタコーヴィチには未だ「キワモノ」的な印象をぬぐいきれないのですが―そこに魅力を感じることも事実なのですが―、ヤンソンスの演奏で聴くと、古今東西の名曲と比肩しうる「クラシック」の王道と呼ぶにふさわしい作品として屹立します。
加えてこのCD(SACD)は録音も素晴らしく、弦の厚い響き、管楽器の強奏部分でさえ柔らかさを失わない優美さは、コンサートホールで実演を聴いているかのような喜びがあります。
すっかり涼しくなり、過ごしやすくなった秋の夜。
皆さんも好きな音楽をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょう。
今朝のお供、
Red Hot Chili Peppers(アメリカのバンド)の『The Getaway』。
大人のレッチリ。クラシック音楽向きに組んである自室のオーディオでも、王者の貫録と余裕を感じさせるロックが堂々と鳴ります。
(佐々木 大輔)
いよいよ始まったリオデジャネイロオリンピック。
開催すら危ぶまれたオリンピックでしたが、いざ始まってみると連日の熱戦に夢中。
日本も16日朝の時点でメダル数が金7個、銀4個、銅16個と大健闘しています。
柔道男子は史上初めて全階級メダルの快挙を達成し、卓球シングルスは男子の水谷選手が日本勢初のメダルを獲得しました。卓球は男子団体も銀メダル以上が確定しています。
錦織選手が96年振りのメダルを獲得したテニス男子シングルスも素晴らしかったですね。
そしてなんといっても体操の内村選手。アテネオリンピックの「栄光への架け橋」から12年、悲願の団体金メダルを獲得、その後の個人総合でも集中力を切らさず大逆転の金メダル劇は圧巻でした。
テレビの前で応援する私個人の気持ちとしては、選手の皆さんが力を出し切った結果であれば、メダルの色は(もっと言えばメダル自体も)関係ないと思っています。
もっとも、一番いい色のメダルを目指して誰よりも努力したけれど、結果的にメダルに手が届かなかった選手に対して、「メダルよりも頑張ったことに価値がある」と言うことは、その選手の努力を否定することにもなりかねません。
それでも、実際にオリンピックに出場しているわけではなく関係者でもない、ただ応援するだけの私は、出場した選手が個々の目標達成を目指して力を出し切り、頑張る姿に胸を熱くするのです。
そうは言うものの、やはり応援している選手には何としても勝ってもらいたいですし、メダルを取ってほしいですから、思わず応援にも力が入り、はからずも次の日筋肉痛になってしまうのですが。
後半戦も4連覇のかかるレスリング女子など、まだまだ目が離せない楽しみな競技が続きます。
選手の皆さんの活躍に期待しましょう。
スポーツの話題でもうひとつ。
元横綱千代の富士の九重親方が、7月31日に亡くなりました。
私は千代の富士の大ファンでしたので、「あの強くてかっこよかった千代の富士でも病には敵わなかったのか・・・」と本当に残念でなりません。
訃報に接して私が思い出すのは、引退を決意することとなった貴花田(現貴乃花親方)との取組や、53連勝で止まった大乃国(現芝田山親方)との取組など、横綱が負けた一番ばかりというのも不思議なものですが、勝つことが当たり前で負けることが珍しかった大横綱ならではの思い出かな、とも思います。
ご冥福をお祈りします。
今朝のお供、
SMAPの曲「夜空ノムコウ」。
僕らにとっての、あの頃の未来。
過ぎていく毎日の中で、励ますように口ずさめば、少しだけ僕を強くする。
(佐々木 大輔)