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ロックの辞めどき

最近、ロックミュージシャンの引退のニュースが立て続けに報道されました。
ポール・サイモン(ex.サイモン&ガーファンクル)はハイドパークでのライヴを最後に引退することを表明しましたし、エルトン・ジョンも世界ツアーからの引退を表明しました。デビューから45年を数えるエアロスミスも、現在最後の世界ツアー(フェアウェル・ツアー)を行っており、ツアー終了後、バンドを解散させることを示唆しています。
また、ロックではありませんが、日本でも昨年、安室奈美恵の引退が大きく報じられました。

バンドもミュージシャンも知力体力が続く限り続けることができる職業です。スポーツ選手よりもはるかに寿命の長い職業です。
ところが、以前のミュージシャンといえば、不摂生な生活を送り、アルコールやドラッグによる死亡、自殺等により、若くしてキャリアを終える人が多くいました。27歳で死亡するミュージシャンが多いことも有名で、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリスン(ドアーズ)、カート・コバーン(ニルヴァーナ)、最近ではエイミー・ワインハウスらが27歳で亡くなっています。さらにバンドの場合は、主要メンバーの死亡のほか、メンバー間の仲違いという最もありふれた理由も加わるため、より短命に終わりやすくなっています――解散しない場合でも全盛期は短い――。

そもそも、ロックは年を取ってまで続けるものではなく、若者特有の文化であるという考えは今も根強くありますし、ファンの側でも成長とともにいつしかロックから心が離れてしまうということもあります。
ミュージシャンとしてはクリエイティヴに新しい音楽にも挑戦したいけれど、保守的なファンはそれを求めていないというギャップが生じることもあるでしょうし、自身より下のあるいは上の世代にも魅力のある音楽を生み出せなければ、そのうち人気はジリ貧になってしまいます。

最近相次いで引退を表明したミュージシャンは、全盛期は過ぎたかもしれませんが、幅広い世代に愛され、今でも毎晩何万人という観客を動員できるような「現役」の人たち。とはいえ、ベテランのミュージシャンは今や60代を超えており、一般社会では定年を迎え、第2、第3の人生を歩んでいる年齢です。毎晩大音量の中で何万人もの観客を相手に演奏し続けることの負担は計り知れませんし、辞める潮時を考えるのも無理ありません。

でも、解散してもすぐに再結成するバンドや、「辞める、辞める」と言いながらいつまでも活動を続けるミュージシャンも結構いますからね。あまり深刻にとらえないほうがいいのかも。
やはり一度でもスポットライトの中で歓声を浴びてしまうと、そこから得られる興奮を忘れることができないのでしょう。だったらドラッグなんかに興奮を求めたりしないで、本業で興奮を得ることに集中してくれたら、早逝してファンを悲しませることもないのに・・・なんてことをロックに求めるのはお門違い?

今朝のお供、
The Rolling Stonesの『It’s Only Rock ’n Roll』。
たかがロックンロール。されど、メンバーの死、不仲、ドラッグ等数々の問題を乗り越え、半世紀以上一度も解散することなく続けることの凄さ。

                                   (佐々木 大輔)

私の好きな曲「ブラームス交響曲第4番」

冒頭のささやくようなヴァイオリンの旋律からたゆたうように開始される男の独白は、内省的でデリケートな歌を口ずさみ、ともすれば自暴自棄になりかねない感情の炸裂も、冷静さと秩序を保ちながら、最後は揺るぎなく、あまりにも決然としたフィナーレを迎える。

私が好きなブラームスの交響曲第4番。それは私小説のようであり、ひとりの男―あえてここは「男」と言い切りましょう―の告白を聞くかのようでもあります。
秋になるとブラームスが聴きたくなるということは、以前も当ブログで書きましたが、今年も変わりなくブラームス三昧の毎日です。特に今年は交響曲第4番に惹かれ、手持ちのCDやレコードをあれやこれやと持ち出し、取っ替え引っ替え聴いています。

ブラームスには4曲の交響曲がありますが、おそらくはその中で最も渋いこの第4番。ブラームス51歳の頃の作品です。作曲当時の時代背景からすると、多分に保守的、はっきり言ってしまえば古臭い音楽として、対立するワーグナー派にはもちろんのこと、親子ほど年の離れた後輩作曲家マーラーにも「空っぽな音の桟敷」と酷評されたとの記録が残っています。
現在では古典的な技法が用いられた円熟の傑作として、多くの演奏、録音の機会に恵まれているため、先に述べたように私もさまざまな演奏でこの曲を楽しむことが出来ています。

最近代わる代わる聴いているのは、CDでベーム指揮ウィーン・フィル、カラヤン指揮ベルリン・フィル(70年代)、バーンスタイン指揮ウィーン・フィル、スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン、シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団、レコードでカラヤン指揮ベルリン・フィル(60年代)。そして、あえて日常的には聴くことを控えているクライバー指揮ウィーン・フィルのレコードに一度だけ針を落としました。

クライバー盤は、私にこの曲の魅力を教えてくれた恩人のような存在であり、10代の終わり頃、それこそ毎日のように聴いた思い出の詰まった1枚です―当時聴いていたのはCDであり、レコードは後日手に入れたものですが―。ブラームス後期の作品であり、諦念の表れとも言われる第4番―ベーム盤はまさにそのような演奏―を、録音当時50歳だったクライバーは、颯爽と、一点の曇りもなく、澄み切った秋の空のように奏でます。
個人的な思い入れが深いクライバー盤は、私の場合、曲を聴くというより、どうしても「思い出を聴く」というセンチメンタリズムに傾きがちです。それゆえ、日常的に聴くことを避けているのですが、久しぶりにターンテーブルにのせたクライバー盤は、力強く前向きで、明日が希望に満ちていることを確信させてくれる演奏でした。

今朝のお供、
AC/DC(オーストラリアのバンド)の『LIVE AT THE DONINGTON』。
R.I.P.マルコム・ヤング
                                   (佐々木 大輔)

ロックTシャツ愛

ロックTシャツ。
ロックバンドのロゴやメンバー写真、アルバムジャケットなどがデザインされたTシャツです。
最近は街なかでも普段着としてロックTシャツをおしゃれに着こなす若者を見かけるようになり、ロックのすそ野も広がったものだなあと嬉しく思っていたのですが、事はそう単純でもないようです。

以前あるバラエティ番組で、ロックTシャツを着ている人にそのバンドの代表曲のイントロを聞かせて曲名を答えられるか検証するという企画を放送していましたが、検証結果はなんと9割以上の人が答えられないというもの。そればかりか、中には着ているTシャツのバンド名さえ知らない人もいたという衝撃的な結果!

確かに今では通販でも幅広く手に入りますし、バンドの音楽よりもデザインに惹かれてTシャツを購入したという人がいてもおかしくありません。

私がロックに夢中だった中学時代は、好きなバンドのTシャツを欲しいと思っても情報すらほとんどなく、雑誌の片隅に小さく載っていた取扱い業者―多くが新宿のマンションの一室で商売をしていました―に電話をかけて注文したり、雑誌の懸賞に応募したりしていたことを懐かしく思い出します。
いずれにしても選べるほどの種類はなく、各デザインにつきサイズもワンサイズ。明らかにオーバーサイズな海外サイズのLを購入せざるを得ないことも度々で、実際着てみるとやっぱりぶかぶか。
悲しいかなロック感よりもヒップホップ感の方が強かった・・・。
それでも手に入れられたことが嬉しくて、学生服の中に着て通学していました―本当は校則違反だったのかもしれませんが―。

その頃の思い出が詰まったTシャツは、さすがに現役ではありませんが、今でも大切に保管してあります。

そんなノスタルジックな思いもあり、私はロックTシャツにひとかたならぬこだわりがあります。
それは「好きなバンドのTシャツしか着ないこと」。
デザインがおしゃれだ、可愛いなどといった生ぬるい理由で、音を聴いたこともないバンドのTシャツを着ることはありません。
もっと言えば、ベストアルバム(ヒット曲だけを収録したもの)を持っている程度のバンドのTシャツも着ません。
そもそも、ロックTシャツがおしゃれだと思ったこともありません。
むしろ、「このダサいデザインのTシャツを身に着けられるほど、お前はこのバンドを愛しているのか」と挑まれている気がして、そのバンドに忠誠を誓うがごとき熱い気持ちで袖を通しているのです。

そんな訳で、昔は若気の至りもあり他人にも自分の価値観を押し付けがちで、聴いたこともないバンドのTシャツを着ている人に対して否定的でした。
最近は少し丸くなったのか、音楽を知らずに着ている人たちにも、ロックTシャツをきっかけにそのバンドの音楽を聴いてもらえたらいいな、そして本当にそのバンドのファンになってもらえたらいいなと思っています。

 

今朝のお供、
AC/DC(オーストラリアのバンド)の『Let There Be Rock』。

(佐々木 大輔)