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レナード・バーンスタイン

今年はレナード・バーンスタイン(1918~1990)生誕100周年の年。
ということは、ライバルといわれたカラヤンの生誕110周年の年でもあるわけですが、今回はバーンスタインについて。

マエストロ(巨匠、芸術の大家)と呼ばれることを好まなかったバーンスタインのことを、弟子もオーケストラの団員もみな愛情をこめてレニーの愛称で呼びます。例えばカラヤンとバーンスタインの両者に師事した小澤征爾氏は、今でも回想する際カラヤンのことはカラヤン先生と呼び、バーンスタインのことはレニーと呼んでいます。

私にとってレニーはカラヤンと並ぶ大指揮者という存在ですが、クラシック音楽に馴染みのない方々にとっては何といってもミュージカル『ウェストサイド物語』の作曲家としてのイメージが強いのではないでしょうか。
クラシック音楽の歴史の浅いアメリカから登場し、破竹の勢いでスターに上り詰めた若武者というのが、クラシック音楽界における初期の評価であったかと思います。

アメリカ時代のレニーの演奏で最も印象に残っているのは、1959年にニューヨーク・フィルを指揮したショスタコーヴィチ作曲の交響曲第5番。ショスタコーヴィチ自身もレニーの演奏に絶大な信頼を寄せていたといわれています。圧倒的なスピードで駆け抜ける最終楽章の演奏は、他の指揮者では満足できなくなってしまうほどの劇薬。後年、同じオーケストラを振って再録音したものもありますが、私はこの59年盤の方を長らく愛聴しています。

70年代に入ると、活動の拠点をアメリカからヨーロッパへと移し、特にウィーン・フィルとは相思相愛の関係を築いて多くの録音を残しました。
ウィーン・フィルとの録音の中で最も思い入れがあるのは、10代のころからCDで親しんできたベートーヴェン作曲の交響曲第9番。つまり第九です。ライヴ録音ということもあり、レニーの指揮台を踏みしめる足音や唸り声も生々しく収録されています。
人間愛を高らかに歌いあげた合唱が終わり、オーケストラが火花を散らして一気呵成に終結へと突き進む熱量は、レニーの燃えたぎるヒューマニズムそのもの。人類が、国籍も肌の色も目の色も一切関係なく手を取り抱き合うことは、夢想に終わるものではなく努力によって実現可能なものなのだということを、聴く度に教えられる演奏です。

最後に、レニーの作品についてエピソードをひとつ紹介します。
先日N響の演奏会をテレビで観ていたところ、レニー作曲の『セレナード』が演奏されていました。ヴァイオリン独奏は誰だろうかとよく見ると五嶋龍氏。同じヴァイオリニストである五嶋みどり氏の弟さんです。
とくれば、詳しい方はもうお気付きかもしれません。そう、“タングルウッドの奇跡”です。
当時14歳だったお姉さんのみどり氏が、タングルウッド音楽祭でレニー指揮ボストン交響楽団と『セレナード』を共演した時のこと、演奏の途中でヴァイオリンの弦が切れるというハプニングに見舞われたみどり氏は、音楽を途切れさせるわけにはいかないと即座にコンサートマスターから楽器を借りて演奏を続けたものの、再び弦が切れ、今度は副コンサートマスターから楽器を借りて最後まで演奏したという伝説の演奏会です。終演後、レニーは何度も涙をぬぐいながらみどり氏を抱きしめ、翌日のニューヨーク・タイムズ紙でも「14歳の少女、タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」という見出しが一面トップを飾りました。
テレビで聴いた龍氏の演奏は、お姉さんのエピソードに怯むことなく気負うことなく、丁寧に演奏された実直なものでした。
生誕100周年。天国のレニーにとって素敵なプレゼントになったことでしょう。

今朝のお供、
バーンスタイン指揮ベルリン・フィルの演奏でマーラー作曲交響曲第9番。
1979年、カラヤンが音楽監督を務めるベルリン・フィルに、レニーが生涯でただ一度だけ客演した時のライヴ録音。
カラヤンの生前は発売が禁止されていたという曰くつきの一枚。

                                   (佐々木 大輔)

ロックの辞めどき

最近、ロックミュージシャンの引退のニュースが立て続けに報道されました。
ポール・サイモン(ex.サイモン&ガーファンクル)はハイドパークでのライヴを最後に引退することを表明しましたし、エルトン・ジョンも世界ツアーからの引退を表明しました。デビューから45年を数えるエアロスミスも、現在最後の世界ツアー(フェアウェル・ツアー)を行っており、ツアー終了後、バンドを解散させることを示唆しています。
また、ロックではありませんが、日本でも昨年、安室奈美恵の引退が大きく報じられました。

バンドもミュージシャンも知力体力が続く限り続けることができる職業です。スポーツ選手よりもはるかに寿命の長い職業です。
ところが、以前のミュージシャンといえば、不摂生な生活を送り、アルコールやドラッグによる死亡、自殺等により、若くしてキャリアを終える人が多くいました。27歳で死亡するミュージシャンが多いことも有名で、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリスン(ドアーズ)、カート・コバーン(ニルヴァーナ)、最近ではエイミー・ワインハウスらが27歳で亡くなっています。さらにバンドの場合は、主要メンバーの死亡のほか、メンバー間の仲違いという最もありふれた理由も加わるため、より短命に終わりやすくなっています――解散しない場合でも全盛期は短い――。

そもそも、ロックは年を取ってまで続けるものではなく、若者特有の文化であるという考えは今も根強くありますし、ファンの側でも成長とともにいつしかロックから心が離れてしまうということもあります。
ミュージシャンとしてはクリエイティヴに新しい音楽にも挑戦したいけれど、保守的なファンはそれを求めていないというギャップが生じることもあるでしょうし、自身より下のあるいは上の世代にも魅力のある音楽を生み出せなければ、そのうち人気はジリ貧になってしまいます。

最近相次いで引退を表明したミュージシャンは、全盛期は過ぎたかもしれませんが、幅広い世代に愛され、今でも毎晩何万人という観客を動員できるような「現役」の人たち。とはいえ、ベテランのミュージシャンは今や60代を超えており、一般社会では定年を迎え、第2、第3の人生を歩んでいる年齢です。毎晩大音量の中で何万人もの観客を相手に演奏し続けることの負担は計り知れませんし、辞める潮時を考えるのも無理ありません。

でも、解散してもすぐに再結成するバンドや、「辞める、辞める」と言いながらいつまでも活動を続けるミュージシャンも結構いますからね。あまり深刻にとらえないほうがいいのかも。
やはり一度でもスポットライトの中で歓声を浴びてしまうと、そこから得られる興奮を忘れることができないのでしょう。だったらドラッグなんかに興奮を求めたりしないで、本業で興奮を得ることに集中してくれたら、早逝してファンを悲しませることもないのに・・・なんてことをロックに求めるのはお門違い?

今朝のお供、
The Rolling Stonesの『It’s Only Rock ’n Roll』。
たかがロックンロール。されど、メンバーの死、不仲、ドラッグ等数々の問題を乗り越え、半世紀以上一度も解散することなく続けることの凄さ。

                                   (佐々木 大輔)

私の好きな曲「ブラームス交響曲第4番」

冒頭のささやくようなヴァイオリンの旋律からたゆたうように開始される男の独白は、内省的でデリケートな歌を口ずさみ、ともすれば自暴自棄になりかねない感情の炸裂も、冷静さと秩序を保ちながら、最後は揺るぎなく、あまりにも決然としたフィナーレを迎える。

私が好きなブラームスの交響曲第4番。それは私小説のようであり、ひとりの男―あえてここは「男」と言い切りましょう―の告白を聞くかのようでもあります。
秋になるとブラームスが聴きたくなるということは、以前も当ブログで書きましたが、今年も変わりなくブラームス三昧の毎日です。特に今年は交響曲第4番に惹かれ、手持ちのCDやレコードをあれやこれやと持ち出し、取っ替え引っ替え聴いています。

ブラームスには4曲の交響曲がありますが、おそらくはその中で最も渋いこの第4番。ブラームス51歳の頃の作品です。作曲当時の時代背景からすると、多分に保守的、はっきり言ってしまえば古臭い音楽として、対立するワーグナー派にはもちろんのこと、親子ほど年の離れた後輩作曲家マーラーにも「空っぽな音の桟敷」と酷評されたとの記録が残っています。
現在では古典的な技法が用いられた円熟の傑作として、多くの演奏、録音の機会に恵まれているため、先に述べたように私もさまざまな演奏でこの曲を楽しむことが出来ています。

最近代わる代わる聴いているのは、CDでベーム指揮ウィーン・フィル、カラヤン指揮ベルリン・フィル(70年代)、バーンスタイン指揮ウィーン・フィル、スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン、シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団、レコードでカラヤン指揮ベルリン・フィル(60年代)。そして、あえて日常的には聴くことを控えているクライバー指揮ウィーン・フィルのレコードに一度だけ針を落としました。

クライバー盤は、私にこの曲の魅力を教えてくれた恩人のような存在であり、10代の終わり頃、それこそ毎日のように聴いた思い出の詰まった1枚です―当時聴いていたのはCDであり、レコードは後日手に入れたものですが―。ブラームス後期の作品であり、諦念の表れとも言われる第4番―ベーム盤はまさにそのような演奏―を、録音当時50歳だったクライバーは、颯爽と、一点の曇りもなく、澄み切った秋の空のように奏でます。
個人的な思い入れが深いクライバー盤は、私の場合、曲を聴くというより、どうしても「思い出を聴く」というセンチメンタリズムに傾きがちです。それゆえ、日常的に聴くことを避けているのですが、久しぶりにターンテーブルにのせたクライバー盤は、力強く前向きで、明日が希望に満ちていることを確信させてくれる演奏でした。

今朝のお供、
AC/DC(オーストラリアのバンド)の『LIVE AT THE DONINGTON』。
R.I.P.マルコム・ヤング
                                   (佐々木 大輔)