熊本県を中心として九州地方で大きな地震が頻発しています。
被災された方々が一日も早く日常を取り戻すことができますことをお祈りするとともに、亡くなられた方々に哀悼の意を表します。
今回のブログでは、私の好きな1枚の絵画について書くつもりでしたが、またの機会に書かせていただきます。
昨日までと変わらずお仕事をさせていただけること、好きな絵画を観賞したり趣味を楽しむことができる毎日に感謝しなければなりません。
私も昭和58年の日本海中部地震、平成16年の新潟県中越地震を経験しました。
地震等の自然災害は、何の前触れもなく、いつ何時起こるか分かりません。ひとたび起きてしまえば、人々の生命、財産、日々の生活が簡単に奪われてしまう危険を孕んでいます。
四季折々の美しき風景を育む豊かな自然は、日本が世界に誇る財産ですが、常に穏やかであるとは限りません。
東日本大震災から5年が経過しましたが、改めて防災に対する意識を高め、生活していく必要があるでしょう。
今朝のお供、
レッド・ガーランド(アメリカのジャズピアニスト)の『RED INBLUESVILLE』。
親しくしていただいている方からお借りしたレコードのうちの1枚。
この人の演奏は、リーダーアルバムでも我を通さず、さりげなく主役を演じ終えたら、すっと脇役に花を持たせるようで好感が持てます。
(佐々木 大輔)
先日、指揮者の小澤征爾氏が、ラヴェル作曲のオペラ『こどもと魔法』でグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞しました。8回目のノミネートで初受賞ということですが、小澤氏の場合、そのキャリアにおいてグラミー賞以上の栄誉を得ているため、受賞には今さら感がありますが、西洋芸術文化の集大成ともいえるオペラ部門での受賞となると、やはり快挙と言わざるを得ません。
嬉しいニュースが届いた一方、年明けから、ピエール・ブーレーズ(作曲家・指揮者)やニコラウス・アーノンクール(指揮者)といった現在のクラシック音楽界に多大な影響を与えた音楽家が、相次いで鬼籍に入りました。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に大スターだった音楽家たちの訃報を聞くたび、時代の移り変わりを感じ、切なくなります。
最近、友人知人と音楽談義をする機会が多くなり、音楽を聴き始めた頃の初々しい気持ちを思い出し、当時聴いていた録音を久しぶりにあれこれ聴いていたところでしたので、余計に寂しさが募ります。ブーレーズもアーノンクールも、生演奏をついぞ聴く機会がなく終わってしまった私にとって、両巨匠は永遠にレコードの中の住人となってしまいました。それでも、今は亡き音楽家の演奏を繰り返し聴くことができることは、まさにレコード芸術の粋でしょう。
私は音楽を聴くにあたり、CDよりもレコードに手が伸びることは、当ブログでも何度か触れてきました。
私が思うレコードの魅力は、科学的なことは分かりませんが「音の円さ」、そしてジャケットサイズです。
音楽配信が主流となった現代において、重くかさ張るレコードは、過去の遺産のようなものですが、私は、30センチ四方のジャケットをためつすがめつしながら聴かなければ、音楽を聴いた気がしないのです。
シャガールが友人ロストロポーヴィチ(チェリスト・指揮者)の西側デビューを祝い描き下ろしたシェエラザードのジャケット絵画、PINK FLOYD(イギリスのバンド)のイメージと切り離すことができないヒプノシスの作品・・・眺めながらニヤニヤしたり、時には頬ずりしたり―中学時代、欲しいレコード(CD)を購入した時は嬉しくて本当に頬ずりしていました―しながら聴いている姿は、とても人に見せられるものではありませんが。
また、レコードは片面の収録時間が20~30分というのもちょうどいい長さです。たとえば、お酒を飲みながら音楽を聴く場合でも、グラス1杯のお酒を飲みながら片面を聴き、もう1杯とともに裏面を聴く。あるいは、片面を聴きながらハンドドリップでコーヒーを淹れ、裏面を聴きながら淹れたてのコーヒーを飲む。
いずれも至福の時間です。
近年、レコードの復興と言われ、昨年の国内売り上げをみても、CD等音楽ソフトの売り上げが軒並み前年割れとなる中、レコードだけは売上枚数が前年比165%、売上額も同173%となっています。この調子で、若い音楽ファンにもぜひレコードの魅力を知ってもらえればと思います。
でも、私が欲しいレコードは、私に入手させてくださいね。
レコードはすぐに売り切れてしまいますから。
今朝のお供、
ビリー・ジョエル(アメリカのミュージシャン)の『ピアノ・マン』。
ジャケットが怖い。レコードサイズだともっと怖い。
中身は名盤です。
(佐々木 大輔)
年が明けてから、あまり明るいとはいえないニュースが続き、また、人々の過剰な反応にも息苦しさを感じておりましたが、そんな中、大人の間で絵本が再び注目されているという記事にふと目を奪われました。
私は、絵本のことを思うと懐かしさがこみ上げ、不思議と穏やかな気持ちになります。
私が大人になった今も読書好きである原点には、幼い頃、両親から読み聞かせてもらった絵本の体験があります。
楽しい絵本、美しい絵本、そして怖い絵本。
なかでも特に思い出に残っているのは、せなけいこ著『ねないこ だれだ』です。親が子を寝かしつけるためのいわゆる教育絵本というものでしょうか。
夜の9時。
「とけいが なります ボン ボン ボン…」
「こんな じかんに おきてるのは だれだ?」
「ふくろうに みみずく」
「それとも どろぼう」
「いえ いえ よなかは おばけの じかん」。
挿絵は切り絵で、ふくろうや泥棒が何とも言えない不気味さを醸しています。
パジャマ姿でぬいぐるみを持って夜更かしをしている男の子、最後はおばけに連れられて(男の子もおばけのシルエットになって)、夜空に飛んで行ってしまいます。
とても怖い絵本でした。にもかかわらず、怖いもの見たさもあったのか、毎日のように「読んで、読んで」とせがんだと聞いています。
絵本の余白には、幼い私が書いた字とも絵ともつかない書き込みがたくさんあります。いたずら書きのようですが、よく見ると「これはふくろうを描きたかったんだろうな」と思わせるような書き込みがあったり、ストーリーを追いかけるように線が引いてあったり、改めて手に取ってみても、本当にお気に入りの絵本だったんだなあということが分かります。
江國香織はその著書『絵本を抱えて 部屋のすみへ』の中で、子供の頃に部屋の隅で遊んでいると、もっと真ん中で遊びなさいと言われたことを引き合いに、「でも部屋というものは、まんなかとすみでは時間の流れ方も空間の質も全然ちがうわけで、絵本のなかのそれとは、あきらかに部屋のすみの方が近いのでした」と書いています。
私の場合、少し大きくなって自分で絵本を読むようになってからは、部屋のどこで絵本を広げて読んでいたのか覚えていませんが、幼い頃は、寝る前に布団の中で読んでもらうのが好きでした。
その影響が残っているのでしょう、今も読書をするのに一番落ち着く場所は、カフェでもバーでもソファでもなく、ベッドの中です。
今朝のお供、
デヴィッド・ボウイ(イギリスのミュージシャン)の『★(ブラックスター)』。
ボウイは最期まで変わらなかった。「マンネリ」という意味ではなく、常に進化を続ける姿勢を貫いたという意味で。
たくさんの色気と華と毒をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
(佐々木 大輔)