2月の当ブログで、<恩田陸の小説と出会う>などという大仰なタイトルで採りあげました恩田陸著『蜜蜂と遠雷』が、先日、第14回本屋大賞を受賞し、直木賞とのW受賞となったことがニュースになっていました。そしてニュースを見るまでは意識をしていなかったのですが、そのあとに続けて読んだ恩田氏の『夜のピクニック』も、第2回本屋大賞受賞作だったことに不思議な縁を感じたものです。
件の『蜜蜂と遠雷』は音楽を題材とした小説だったので、今回のブログは私の好きな音楽について・・・というのは少々強引ですが、お付き合いください。
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番(K.595)。私はこの曲が大好きで、春になると聴きたくなります。第3楽章の主題が、同じ年に作曲されたモーツァルト自身の歌曲「春への憧れ」に転用されているからかもしれません。
モーツァルト晩年の傑作のひとつで、完成したのは亡くなった年の初頭。モーツァルト自身、もう長くはないことを悟り、再び春を愛でることはできないかもしれないという諦念がにじむ一曲です。それゆえ、モーツァルトらしい華やかさよりも、静謐な佇まいを感じます。
バレンボイムのピアノ(と指揮)とイギリス室内管弦楽団による演奏は、私が10代の頃から愛聴しているもので、CDとレコード盤の両方で所有しているのですが、最近はレコード盤の方で聴くことが多くなりました。50年も前の録音で、さすがに録音の古さを感じるものの―レコード盤で聴く限りそれも味わいとなりますが―オーケストラの前奏に続き、コクのある色の濃いピアノが入ってくると一気に華やぎます。
この曲は華やかさよりも・・・と書いたことと矛盾しているようですが、若き日のバレンボイムは音そのものにきらめきがあるからでしょう、咲きこぼれる花のような明るさがあります。しかしその明るさがかえって寂寥感を際立たせているのも事実。緩徐楽章に聴くロマンティックな呟き、胸が締め付けられるようなピアニシモのため息。そのすべてにモーツァルトの微笑みと背中合わせの孤独を感じます。
バレンボイム盤と同様、10代の頃からの愛聴盤に、バックハウスのピアノとベーム指揮ウィーン・フィルのコンビによる演奏があります。こちらはなんと60年以上も前の録音で、バレンボイム盤よりもさらに古い録音ですが、鑑賞には全く問題がありません。硬質で引き締まったピアノの音は澄み切った青空を見上げるようでもあり、枯淡の境地に達した演奏は、余白を生かした水墨画を観るかのようでもあります。
古今東西、良い演奏があるという評判や噂を聞けば、今回紹介した愛聴盤以外もいろいろとチェックをし、その中にはお気に入りの演奏もあるのですが、最終的には、この曲の魅力を最初に教えてくれた愛聴盤に気持ちが戻るようです。
今朝のお供、
MUSE(イギリスのバンド)の『Black Hole and Revelations』。
(佐々木 大輔)
この夏、しばらく故障したままになっていた自室のCDプレーヤーを思い切って新調したことをきっかけに、手持ちのCDをとっかえひっかえ聴いています。
プレーヤーが新しくなると、プラシーボ効果かもしれませんが、聴き馴染んだCDも新鮮に聴こえます。
今回は、改めて聴き直しても良い演奏だなと思ったものをいくつか紹介します。
まず1枚目は、フルニエの演奏によるJ.S.バッハ作曲『無伴奏チェロ組曲全曲』。
「チェロの貴公子」と呼ばれたフルニエの落ち着いたチェロは、秋の夜に聴くにはぴったりの音色です。
有名曲ですのでこの曲には数多くの録音が存在しますが、フルニエの演奏は、1960年に録音されてから50年以上経った現在でも、この曲を代表する名盤の地位を譲る様子はありません。
あまりにも定番すぎて、かえって最近は手に取る機会の少ない演奏でしたが、今回、気持ちも新たに聴いてみると、気品はもちろんですが、新しいプレーヤーのおかげか、弦を押さえるフルニエの指の力がリアルに伝わってきて、気品以上に「たくましさ」を感じました。聴き進むと、そのたくましさはやがて父性を湛えた優しさへと姿を変え、やすらぎに満ちた慈愛で聴く身を包んでくれます。
もう1枚は、マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるショスタコーヴィチ作曲交響曲第7番『レニングラード』。
この曲が作曲された背景について一言触れておきますと、1941年6月、ナチスドイツの侵攻により多くの犠牲者を出したレニングラードでの壮絶な攻防の中、作曲者自身も命の危険にさらされながら、民衆の抵抗する姿や犠牲者への鎮魂を込めて書かれた作品です。
ところがここでのヤンソンスは、上述の背景にこだわり過ぎず、純音楽としての演奏に徹している感があり、そのぶん第1楽章の行進曲には若干の物足りなさを感じますが、第3楽章の深い祈りは言葉を失うほどの美しさです。
私個人としては、ショスタコーヴィチには未だ「キワモノ」的な印象をぬぐいきれないのですが―そこに魅力を感じることも事実なのですが―、ヤンソンスの演奏で聴くと、古今東西の名曲と比肩しうる「クラシック」の王道と呼ぶにふさわしい作品として屹立します。
加えてこのCD(SACD)は録音も素晴らしく、弦の厚い響き、管楽器の強奏部分でさえ柔らかさを失わない優美さは、コンサートホールで実演を聴いているかのような喜びがあります。
すっかり涼しくなり、過ごしやすくなった秋の夜。
皆さんも好きな音楽をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょう。
今朝のお供、
Red Hot Chili Peppers(アメリカのバンド)の『The Getaway』。
大人のレッチリ。クラシック音楽向きに組んである自室のオーディオでも、王者の貫録と余裕を感じさせるロックが堂々と鳴ります。
(佐々木 大輔)
先日、指揮者の小澤征爾氏が、ラヴェル作曲のオペラ『こどもと魔法』でグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞しました。8回目のノミネートで初受賞ということですが、小澤氏の場合、そのキャリアにおいてグラミー賞以上の栄誉を得ているため、受賞には今さら感がありますが、西洋芸術文化の集大成ともいえるオペラ部門での受賞となると、やはり快挙と言わざるを得ません。
嬉しいニュースが届いた一方、年明けから、ピエール・ブーレーズ(作曲家・指揮者)やニコラウス・アーノンクール(指揮者)といった現在のクラシック音楽界に多大な影響を与えた音楽家が、相次いで鬼籍に入りました。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に大スターだった音楽家たちの訃報を聞くたび、時代の移り変わりを感じ、切なくなります。
最近、友人知人と音楽談義をする機会が多くなり、音楽を聴き始めた頃の初々しい気持ちを思い出し、当時聴いていた録音を久しぶりにあれこれ聴いていたところでしたので、余計に寂しさが募ります。ブーレーズもアーノンクールも、生演奏をついぞ聴く機会がなく終わってしまった私にとって、両巨匠は永遠にレコードの中の住人となってしまいました。それでも、今は亡き音楽家の演奏を繰り返し聴くことができることは、まさにレコード芸術の粋でしょう。
私は音楽を聴くにあたり、CDよりもレコードに手が伸びることは、当ブログでも何度か触れてきました。
私が思うレコードの魅力は、科学的なことは分かりませんが「音の円さ」、そしてジャケットサイズです。
音楽配信が主流となった現代において、重くかさ張るレコードは、過去の遺産のようなものですが、私は、30センチ四方のジャケットをためつすがめつしながら聴かなければ、音楽を聴いた気がしないのです。
シャガールが友人ロストロポーヴィチ(チェリスト・指揮者)の西側デビューを祝い描き下ろしたシェエラザードのジャケット絵画、PINK FLOYD(イギリスのバンド)のイメージと切り離すことができないヒプノシスの作品・・・眺めながらニヤニヤしたり、時には頬ずりしたり―中学時代、欲しいレコード(CD)を購入した時は嬉しくて本当に頬ずりしていました―しながら聴いている姿は、とても人に見せられるものではありませんが。
また、レコードは片面の収録時間が20~30分というのもちょうどいい長さです。たとえば、お酒を飲みながら音楽を聴く場合でも、グラス1杯のお酒を飲みながら片面を聴き、もう1杯とともに裏面を聴く。あるいは、片面を聴きながらハンドドリップでコーヒーを淹れ、裏面を聴きながら淹れたてのコーヒーを飲む。
いずれも至福の時間です。
近年、レコードの復興と言われ、昨年の国内売り上げをみても、CD等音楽ソフトの売り上げが軒並み前年割れとなる中、レコードだけは売上枚数が前年比165%、売上額も同173%となっています。この調子で、若い音楽ファンにもぜひレコードの魅力を知ってもらえればと思います。
でも、私が欲しいレコードは、私に入手させてくださいね。
レコードはすぐに売り切れてしまいますから。
今朝のお供、
ビリー・ジョエル(アメリカのミュージシャン)の『ピアノ・マン』。
ジャケットが怖い。レコードサイズだともっと怖い。
中身は名盤です。
(佐々木 大輔)