この夏、しばらく故障したままになっていた自室のCDプレーヤーを思い切って新調したことをきっかけに、手持ちのCDをとっかえひっかえ聴いています。
プレーヤーが新しくなると、プラシーボ効果かもしれませんが、聴き馴染んだCDも新鮮に聴こえます。
今回は、改めて聴き直しても良い演奏だなと思ったものをいくつか紹介します。
まず1枚目は、フルニエの演奏によるJ.S.バッハ作曲『無伴奏チェロ組曲全曲』。
「チェロの貴公子」と呼ばれたフルニエの落ち着いたチェロは、秋の夜に聴くにはぴったりの音色です。
有名曲ですのでこの曲には数多くの録音が存在しますが、フルニエの演奏は、1960年に録音されてから50年以上経った現在でも、この曲を代表する名盤の地位を譲る様子はありません。
あまりにも定番すぎて、かえって最近は手に取る機会の少ない演奏でしたが、今回、気持ちも新たに聴いてみると、気品はもちろんですが、新しいプレーヤーのおかげか、弦を押さえるフルニエの指の力がリアルに伝わってきて、気品以上に「たくましさ」を感じました。聴き進むと、そのたくましさはやがて父性を湛えた優しさへと姿を変え、やすらぎに満ちた慈愛で聴く身を包んでくれます。
もう1枚は、マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるショスタコーヴィチ作曲交響曲第7番『レニングラード』。
この曲が作曲された背景について一言触れておきますと、1941年6月、ナチスドイツの侵攻により多くの犠牲者を出したレニングラードでの壮絶な攻防の中、作曲者自身も命の危険にさらされながら、民衆の抵抗する姿や犠牲者への鎮魂を込めて書かれた作品です。
ところがここでのヤンソンスは、上述の背景にこだわり過ぎず、純音楽としての演奏に徹している感があり、そのぶん第1楽章の行進曲には若干の物足りなさを感じますが、第3楽章の深い祈りは言葉を失うほどの美しさです。
私個人としては、ショスタコーヴィチには未だ「キワモノ」的な印象をぬぐいきれないのですが―そこに魅力を感じることも事実なのですが―、ヤンソンスの演奏で聴くと、古今東西の名曲と比肩しうる「クラシック」の王道と呼ぶにふさわしい作品として屹立します。
加えてこのCD(SACD)は録音も素晴らしく、弦の厚い響き、管楽器の強奏部分でさえ柔らかさを失わない優美さは、コンサートホールで実演を聴いているかのような喜びがあります。
すっかり涼しくなり、過ごしやすくなった秋の夜。
皆さんも好きな音楽をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょう。
今朝のお供、
Red Hot Chili Peppers(アメリカのバンド)の『The Getaway』。
大人のレッチリ。クラシック音楽向きに組んである自室のオーディオでも、王者の貫録と余裕を感じさせるロックが堂々と鳴ります。
(佐々木 大輔)
先日、指揮者の小澤征爾氏が、ラヴェル作曲のオペラ『こどもと魔法』でグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞しました。8回目のノミネートで初受賞ということですが、小澤氏の場合、そのキャリアにおいてグラミー賞以上の栄誉を得ているため、受賞には今さら感がありますが、西洋芸術文化の集大成ともいえるオペラ部門での受賞となると、やはり快挙と言わざるを得ません。
嬉しいニュースが届いた一方、年明けから、ピエール・ブーレーズ(作曲家・指揮者)やニコラウス・アーノンクール(指揮者)といった現在のクラシック音楽界に多大な影響を与えた音楽家が、相次いで鬼籍に入りました。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に大スターだった音楽家たちの訃報を聞くたび、時代の移り変わりを感じ、切なくなります。
最近、友人知人と音楽談義をする機会が多くなり、音楽を聴き始めた頃の初々しい気持ちを思い出し、当時聴いていた録音を久しぶりにあれこれ聴いていたところでしたので、余計に寂しさが募ります。ブーレーズもアーノンクールも、生演奏をついぞ聴く機会がなく終わってしまった私にとって、両巨匠は永遠にレコードの中の住人となってしまいました。それでも、今は亡き音楽家の演奏を繰り返し聴くことができることは、まさにレコード芸術の粋でしょう。
私は音楽を聴くにあたり、CDよりもレコードに手が伸びることは、当ブログでも何度か触れてきました。
私が思うレコードの魅力は、科学的なことは分かりませんが「音の円さ」、そしてジャケットサイズです。
音楽配信が主流となった現代において、重くかさ張るレコードは、過去の遺産のようなものですが、私は、30センチ四方のジャケットをためつすがめつしながら聴かなければ、音楽を聴いた気がしないのです。
シャガールが友人ロストロポーヴィチ(チェリスト・指揮者)の西側デビューを祝い描き下ろしたシェエラザードのジャケット絵画、PINK FLOYD(イギリスのバンド)のイメージと切り離すことができないヒプノシスの作品・・・眺めながらニヤニヤしたり、時には頬ずりしたり―中学時代、欲しいレコード(CD)を購入した時は嬉しくて本当に頬ずりしていました―しながら聴いている姿は、とても人に見せられるものではありませんが。
また、レコードは片面の収録時間が20~30分というのもちょうどいい長さです。たとえば、お酒を飲みながら音楽を聴く場合でも、グラス1杯のお酒を飲みながら片面を聴き、もう1杯とともに裏面を聴く。あるいは、片面を聴きながらハンドドリップでコーヒーを淹れ、裏面を聴きながら淹れたてのコーヒーを飲む。
いずれも至福の時間です。
近年、レコードの復興と言われ、昨年の国内売り上げをみても、CD等音楽ソフトの売り上げが軒並み前年割れとなる中、レコードだけは売上枚数が前年比165%、売上額も同173%となっています。この調子で、若い音楽ファンにもぜひレコードの魅力を知ってもらえればと思います。
でも、私が欲しいレコードは、私に入手させてくださいね。
レコードはすぐに売り切れてしまいますから。
今朝のお供、
ビリー・ジョエル(アメリカのミュージシャン)の『ピアノ・マン』。
ジャケットが怖い。レコードサイズだともっと怖い。
中身は名盤です。
(佐々木 大輔)
毎年秋は、国内外の主要なオーケストラの新シーズンが始まり、各オーケストラがどんなプログラムを組んでくるのか楽しみな時期でもあります。
中でもNHK交響楽団(N響)は、テレビやラジオでも演奏会を楽しむことができることから、私にとって最もその演奏を楽しむ機会が多いオーケストラといえるでしょう。
私がN響の演奏で思い出に残っているのは、まず、小澤征爾の指揮とロストロポーヴィチのチェロによる「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」(1995年)。そして、普段優等生的なN響が珍しく熱く燃え、興奮と感動のあまり泣きながら演奏する団員もいたというチョン・ミョンフンの指揮による「チャイコフスキーの交響曲第4番」(1998年)です。
小澤征爾の演奏は、「ボイコット事件」(*)以来絶縁状態にあった両者が、32年ぶりに共演するという歴史的な演奏会でのもの。折しも阪神淡路大震災発生直後の演奏会ということもあって、始まりと終わりは拍手なしの黙とうにより、静寂に包まれた異例の演奏会となりました。
「今、ここに鳴らさなければならない音」が切実な響きとなって、和解に至る前の張り詰めた緊張感を飲み込むさまを聴くにおよび、真の音楽を前にした時、私的な感情は一切の意味を失うことを思い知らされた演奏でもあります。
さて、N響は今シーズン(2015年9月)から、パーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎えました。N響が「首席指揮者」というポストを設けたのは今回が初めてとのことで、ヤルヴィが初代ということになります。
過去にN響と深くかかわった指揮者たちが務めてきたポストは、名誉指揮者や常任指揮者あるいは音楽監督というもので、いったい首席指揮者とはどう違うのかと聞かれても私にはよくわからないのですが、とにかく、これからしばらくの年月、N響はヤルヴィとの演奏を中心に活動していくことになります。
私が聴く限り、ヤルヴィの音楽作りに独裁的な色合いはなく、団員個々から良いところを積極的に引き出した上で、それをリーダーとしてまとめ上げ、ひとつの方向へ導いていくため、オーケストラの自発性が高められ、音楽に弾けるような喜びが輝きます。
N響は、ドイツ・オーストリアの伝統に根差した音楽作りをしてきたオーケストラです。長きにわたりN響を指導してきたサヴァリッシュやスイトナーといった優れた指揮者の薫陶によるところも大きいでしょう。その一方で、デュトワ時代には、エスプリの効いた色彩豊かな音への変化が高く評価されました。
ヤルヴィの就任によってN響の音はどのように変わるのでしょう。
過去の客演、10月の演奏会からは、相性の良さがうかがえます。レパートリーも多岐にわたる指揮者ですし、N響の新しい魅力を存分に引き出してくれることと期待しています。
*ボイコット事件(1962年)
若き日の小澤とN響が衝突し、N響が本番をボイコットした事件。
演奏会当日、団員のいないステージに小澤がひとり登壇した。
今朝のお供、
DEF LEPPARD(イギリスのバンド)の『ADRENALIZE』。
(佐々木 大輔)