先日、指揮者の小澤征爾氏が、ラヴェル作曲のオペラ『こどもと魔法』でグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞しました。8回目のノミネートで初受賞ということですが、小澤氏の場合、そのキャリアにおいてグラミー賞以上の栄誉を得ているため、受賞には今さら感がありますが、西洋芸術文化の集大成ともいえるオペラ部門での受賞となると、やはり快挙と言わざるを得ません。
嬉しいニュースが届いた一方、年明けから、ピエール・ブーレーズ(作曲家・指揮者)やニコラウス・アーノンクール(指揮者)といった現在のクラシック音楽界に多大な影響を与えた音楽家が、相次いで鬼籍に入りました。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に大スターだった音楽家たちの訃報を聞くたび、時代の移り変わりを感じ、切なくなります。
最近、友人知人と音楽談義をする機会が多くなり、音楽を聴き始めた頃の初々しい気持ちを思い出し、当時聴いていた録音を久しぶりにあれこれ聴いていたところでしたので、余計に寂しさが募ります。ブーレーズもアーノンクールも、生演奏をついぞ聴く機会がなく終わってしまった私にとって、両巨匠は永遠にレコードの中の住人となってしまいました。それでも、今は亡き音楽家の演奏を繰り返し聴くことができることは、まさにレコード芸術の粋でしょう。
私は音楽を聴くにあたり、CDよりもレコードに手が伸びることは、当ブログでも何度か触れてきました。
私が思うレコードの魅力は、科学的なことは分かりませんが「音の円さ」、そしてジャケットサイズです。
音楽配信が主流となった現代において、重くかさ張るレコードは、過去の遺産のようなものですが、私は、30センチ四方のジャケットをためつすがめつしながら聴かなければ、音楽を聴いた気がしないのです。
シャガールが友人ロストロポーヴィチ(チェリスト・指揮者)の西側デビューを祝い描き下ろしたシェエラザードのジャケット絵画、PINK FLOYD(イギリスのバンド)のイメージと切り離すことができないヒプノシスの作品・・・眺めながらニヤニヤしたり、時には頬ずりしたり―中学時代、欲しいレコード(CD)を購入した時は嬉しくて本当に頬ずりしていました―しながら聴いている姿は、とても人に見せられるものではありませんが。
また、レコードは片面の収録時間が20~30分というのもちょうどいい長さです。たとえば、お酒を飲みながら音楽を聴く場合でも、グラス1杯のお酒を飲みながら片面を聴き、もう1杯とともに裏面を聴く。あるいは、片面を聴きながらハンドドリップでコーヒーを淹れ、裏面を聴きながら淹れたてのコーヒーを飲む。
いずれも至福の時間です。
近年、レコードの復興と言われ、昨年の国内売り上げをみても、CD等音楽ソフトの売り上げが軒並み前年割れとなる中、レコードだけは売上枚数が前年比165%、売上額も同173%となっています。この調子で、若い音楽ファンにもぜひレコードの魅力を知ってもらえればと思います。
でも、私が欲しいレコードは、私に入手させてくださいね。
レコードはすぐに売り切れてしまいますから。
今朝のお供、
ビリー・ジョエル(アメリカのミュージシャン)の『ピアノ・マン』。
ジャケットが怖い。レコードサイズだともっと怖い。
中身は名盤です。
(佐々木 大輔)
毎年秋は、国内外の主要なオーケストラの新シーズンが始まり、各オーケストラがどんなプログラムを組んでくるのか楽しみな時期でもあります。
中でもNHK交響楽団(N響)は、テレビやラジオでも演奏会を楽しむことができることから、私にとって最もその演奏を楽しむ機会が多いオーケストラといえるでしょう。
私がN響の演奏で思い出に残っているのは、まず、小澤征爾の指揮とロストロポーヴィチのチェロによる「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」(1995年)。そして、普段優等生的なN響が珍しく熱く燃え、興奮と感動のあまり泣きながら演奏する団員もいたというチョン・ミョンフンの指揮による「チャイコフスキーの交響曲第4番」(1998年)です。
小澤征爾の演奏は、「ボイコット事件」(*)以来絶縁状態にあった両者が、32年ぶりに共演するという歴史的な演奏会でのもの。折しも阪神淡路大震災発生直後の演奏会ということもあって、始まりと終わりは拍手なしの黙とうにより、静寂に包まれた異例の演奏会となりました。
「今、ここに鳴らさなければならない音」が切実な響きとなって、和解に至る前の張り詰めた緊張感を飲み込むさまを聴くにおよび、真の音楽を前にした時、私的な感情は一切の意味を失うことを思い知らされた演奏でもあります。
さて、N響は今シーズン(2015年9月)から、パーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎えました。N響が「首席指揮者」というポストを設けたのは今回が初めてとのことで、ヤルヴィが初代ということになります。
過去にN響と深くかかわった指揮者たちが務めてきたポストは、名誉指揮者や常任指揮者あるいは音楽監督というもので、いったい首席指揮者とはどう違うのかと聞かれても私にはよくわからないのですが、とにかく、これからしばらくの年月、N響はヤルヴィとの演奏を中心に活動していくことになります。
私が聴く限り、ヤルヴィの音楽作りに独裁的な色合いはなく、団員個々から良いところを積極的に引き出した上で、それをリーダーとしてまとめ上げ、ひとつの方向へ導いていくため、オーケストラの自発性が高められ、音楽に弾けるような喜びが輝きます。
N響は、ドイツ・オーストリアの伝統に根差した音楽作りをしてきたオーケストラです。長きにわたりN響を指導してきたサヴァリッシュやスイトナーといった優れた指揮者の薫陶によるところも大きいでしょう。その一方で、デュトワ時代には、エスプリの効いた色彩豊かな音への変化が高く評価されました。
ヤルヴィの就任によってN響の音はどのように変わるのでしょう。
過去の客演、10月の演奏会からは、相性の良さがうかがえます。レパートリーも多岐にわたる指揮者ですし、N響の新しい魅力を存分に引き出してくれることと期待しています。
*ボイコット事件(1962年)
若き日の小澤とN響が衝突し、N響が本番をボイコットした事件。
演奏会当日、団員のいないステージに小澤がひとり登壇した。
今朝のお供、
DEF LEPPARD(イギリスのバンド)の『ADRENALIZE』。
(佐々木 大輔)
今年はフィンランドの作曲家シベリウスの生誕150周年。
そこで今回は、私が特に好むシベリウスの曲を2曲紹介します。
最初に紹介するのは交響曲第5番。
7曲あるシベリウスの(番号付き)交響曲の中で、最もポピュラーなのは第2番かと思いますが(もちろん私も大好きです)、私が今最も惹かれるのは第5番の交響曲です。
とてもユニークな構成で、特に最終楽章の終結部は、初めて演奏会で聴いたとしたら、どのタイミングで拍手をすればいいのか分からないような、ベートーヴェンもびっくりの終わり方です。
私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団による演奏。大胆な強弱や緩急をつけて趣向を凝らした演奏は、シベリウスというよりは、ラトルの才気を強く感じさせるものですが、キレのあるリズムや見通しのよい音づくりにより、陽光はきらめき、若草は爽やかに香ります。
件の終結部は輝かしく、数ある同曲異演の中でも説得力は群を抜いているように思われます。
次はヴァイオリン協奏曲を。
開放的な第5交響曲に対し、北欧の冷たい空気を思わせる張りつめた緊張感と洗練されたリリシズムが魅力的な曲です。
私はこの曲を、高校生の時に買ったアンネ=ゾフィー・ムターの演奏によって知ったものですから、ムターの演奏が私にとっての原体験となっています。
とはいえ、その後いろいろな演奏を聴くにおよび、ムターの演奏は(名演であることに疑いの余地はありませんが)この曲本来の姿からすれば、かなり異端な演奏ではないだろうかと感じるようになりました。
むせ返るほど濃厚なこの演奏に対して、「これはシベリウスではない」と拒否反応を示す方もいるでしょう。
最近、もう少し繊細なヴァイオリンを聴きたいときは、クリスチャン・フェラスのレコードに針を落とすことにしています(共演はカラヤン指揮ベルリン・フィル)。
ほの暗い色気を湛え、死のにおいもそこはかとなく漂うフェラスの演奏。惜しむらくは、オーケストラが重すぎること。
しかし、フェラスの繊細なヴァイオリンを、風に折れそうになりながら必死に耐え忍ぶ一輪の花と聴けば、それはそれで素敵な演奏なのかもしれません。
好きな曲を気分に応じて何種類かの演奏で楽しむ。
世間の評価は別として、自分にとっての名演を探す。
それは音楽のもっとも美味しい楽しみ方(と私は思います)であり、禁断の果実でもあります。
この味を知ってしまった以上、もう、後戻りはできません。
その代償として、同曲異演のCDやレコードが際限なくたまります。
今朝のお供、
METALLICA(アメリカのバンド)の『Master of Puppets』。
(佐々木 大輔)