今年は名指揮者カルロス・クライバーの没後10年。私にクラシック音楽の面白さを教えてくれた指揮者です。
20世紀最後のカリスマと呼ばれ、キャンセルは日常茶飯事、初めてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮者に決定した時は、世界中継の当日にキャンセルされたときのため、テレビ局が中継用に前日の演奏会を録画して万一に備えていたことや(ニューイヤーコンサートは、大晦日にも同じプログラムで開催され、元日の演奏会が世界中に中継されます)、代役として非公式にアバドが控えていたことなどが話題になりました。
そのほか、指揮者カラヤンから、なかなか指揮台に上がらない理由を問われ、「冷蔵庫が空になるまで指揮はしない」とはぐらかしたというエピソードや、極端に狭いレパートリーからは、変わり者で気難しい人のように思われますが、どうやらそのとおりの人であったことは間違いないようです。
彼の残した希少な録音は、全てが名演として有名ですので、私が改めてここに書くまでもありません。
そこで、今回は、彼の若き日のリハーサル映像(オペラ『こうもり』の序曲)を紹介します。
リハーサルに見る彼は、しばしばオーケストラの演奏を止めて指示を出します。音楽を言葉にするというのは困難を極めることと思いますが、ウィットとユーモアに富んだ的確な指示で(法的に看過できないような喩えもありますが)、オーケストラから自分の理想とする音を引き出す彼の手腕は見事。
たいていのオーケストラは、演奏を途中で止められることを嫌い、指揮者の長広舌など聞きたくないというのが本音でしょうが、彼は一切の妥協をせず、文学的な表現でもって自分より年長者の多い団員を説得します。
そしてその効果は、私のような素人耳にもはっきりわかるほど。指示を受けたオーケストラの音は、「これぞクライバー」という音に一変。
彼の(本番での)演奏は、テンペラメントに満ちたものと評されることが多いのですが、その裏で実に緻密なリハーサルを行っていたことは、映像が公開された当時、多くの評論家やファンを驚かせたものでした。
ちなみに、『こうもり』序曲は、彼の得意のレパートリーであり、後年、バイエルンとのものが2種(映像として残された方は、弾力が効いて、間が絶妙)、前述のニューイヤーコンサートでのもの(蝶のように舞い、蜂のように刺すかのような演奏)が正式な録音として発売されていますが、リハーサル時の演奏は、後年の自身の演奏よりも、父エーリッヒ(父親も偉大な指揮者でした)の演奏に似ているように感じます。
今朝のお供、
クライバー指揮ウィーン・フィルによるベートーヴェンの『運命』。
シリアルナンバー入りのアナログ盤ボックスセットを予約してしまいました。私にとって青春の響き。
(佐々木 大輔)
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』のオープニングで勇壮に流れる音楽。作曲者はリヒャルト・シュトラウス。
これは、交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』の第1曲「導入部」であり、映画のために作られた曲ではありませんが、そのはまり具合は観る者に強烈な印象を残します。
―キューブリック監督は、映画『時計じかけのオレンジ』でもベートーヴェンの第九を効果的に使用するなど、その音楽センスには感服せざるを得ません―
そして今年、そのR.シュトラウスは生誕150年のメモリアル・イヤーを迎えます。
映画に使用されたことにより、R.シュトラウスの作品中もっとも有名になった『ツァラトゥストラ』。きっと皆さんも、使用された第1曲「導入部」(1分半くらい)を耳にすれば、「あぁ、この曲か」と思われるはず。そして、その壮大な1分半で十分満足してしまうかもしれません。しかし私は、もう少し我慢して、是非とも続く第2曲「世界の背後を説く者について」も聴いていただきたい。大音響の「導入部」から一転、弦楽器を中心に得も言われぬ美しい旋律が奏でられます。
「導入部」のような、オーディオ・マニアにとって試金石ともいえる大音響にカタルシスを得る愛好家もたくさんいらっしゃるでしょうが、私にとっては、情熱の迸りの後に訪れる物憂げな気怠さと優しさが寄り添う陶酔感こそが、R.シュトラウスを聴く最高の歓びなのです。
そして美しさという点において、オペラ『ばらの騎士』の最後の場面で歌われる三重唱は、20世紀に作曲された最も美しい音楽のひとつではないでしょうか。
クライバー指揮ウィーン国立歌劇場の演奏(映像)に聴く三重唱では、時の流れの無情、過ぎ去りし日への憧憬、若さの輝きが交錯する刹那のきらめきが、クライバーの夢幻的なタクトによって紡がれます―まだ若い(と思っている)私は、同じクライバーの映像でも、79年のバイエルン盤の指揮姿に、より魅力を感じるけれど―
紹介は2曲にとどめるつもりでしたが、R.シュトラウスの美しさについて語るとき、どうしても晩年の作品である『4つの最後の歌』に触れないわけにはいきません。そのオーケストレーションの絢爛さゆえ、俗物と揶揄されることも多かったR.シュトラウスが、晩年に描いた純潔で崇高な愛の調べ。
お気に入りの録音は他にもありますが、ヤノヴィッツが歌い、カラヤンとベルリン・フィルが伴奏を務めた演奏の美しさを超えるものを私は知りません。
ちなみに、映画で使用された『ツァラトゥストラ』も、カラヤン指揮の演奏(1959年録音。ウィーン・フィル)でした。
今朝のお供、
Nine Inch Nails(アメリカのバンド)の『The Downward Spiral』。
(佐々木 大輔)
去る1月20日、イタリアの名指揮者クラウディオ・アバドが亡くなりました(享年80)。
アバドは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルにデビュー後、ミラノ・スカラ座音楽芸術監督、ロンドン交響楽団首席指揮者(のちに同楽団初の音楽監督)、シカゴ交響楽団首席客演指揮者、ウィーン国立歌劇場音楽監督という音楽界最高のポストを歴任し、帝王カラヤンの後継としてベルリン・フィルの芸術監督も務めました。
名実ともに現代最高のマエストロでした。
私が好むアバドの録音として真っ先に指を折るのは、70年代に4つのオーケストラを振り分けたブラームスの交響曲全集の中から、ベルリン・フィルと演奏した交響曲第2番です。若きアバドの指揮のもと、カラヤンの楽器であったベルリン・フィルが、本当にのびのびと演奏していて(特にゴールウェイの吹くフルートが素晴らしい!)、まさにブラームスの田園交響曲と呼ぶにふさわしい、野を渡る爽やかな風を感じます。
ロンドン交響楽団を振ったラヴェルの『ボレロ』も忘れるわけにはいきません。アバドに惚れ込んだ楽団員が、最後のクライマックスで興奮のあまり思わず歓声を上げてしまったという録音で、(通常、楽譜に指示がないものは不要なものとしてカットされるのですが)この歓声はアバドの許可を得て、そのまま収録されています。すでに次代のウィーン国立歌劇場首席指揮者のポストが決まっていたアバドを、楽団員全員で引き止めたというエピソードを物語る熱演で、『ボレロ』嫌いな私でも惹きこまれる演奏です。
大病を患い、ベルリン・フィルを退いたのち、2003年に就任したルツェルン祝祭管弦楽団の芸術監督は、アバドの晩年を代表するポストでしょう。
ルツェルン祝祭管弦楽団は、若手オーケストラを母体として、一流オーケストラから首席クラスの演奏家や、普段はソリストとして活躍するスター演奏家が、アバドを慕って世界中から集まり、一年に一度結成されるオーケストラです。
アバドの十八番であるマーラーの交響曲を一曲ずつ取り上げてきましたが、第8番が残り、全曲演奏は実現しませんでした。
数年前にはベルリン・フィルとの特別演奏会で、今までほとんど指揮してこなかった交響曲『大地の歌』を演奏していたことから、『大地の歌』を含むマーラー・チクルスが、ルツェルンとのコンビで完成するのではと大いに期待していたのですが・・・残念です。
アバドは、知的で清廉な演奏により、音楽そのものの素晴らしさを教えてくれた真の芸術家でした。
ご冥福をお祈りします。
今朝のお供、
モーツァルトのピアノ協奏曲第12番(K.414)を、ルドルフ・ゼルキンのピアノ、アバドの指揮によるロンドン交響楽団の演奏で。
老巨匠ゼルキンのピアノを、親子ほど年齢差のあるアバドが優しくサポートする本演奏は、陽だまりの縁側で、ゼルキンが朴訥と語る思い出話を、アバドが微笑みながら聞いているという趣の温かい演奏です。 アバドは伴奏の名人でもありました。
(佐々木 大輔)