カテゴリー「本・文芸」の記事

トットちゃん

6月18日の放送で最終回を迎えたNHKのドラマ『トットてれび』。
トットちゃんこと黒柳徹子役の満島ひかりさんの(単なるモノマネに終わらない)演技は素晴らしく、黒柳さんそのものでしたし、向田邦子さん、渥美清さん、森繁久彌さん・・・テレビの草創期を支えた錚々たるメンバーとのエピソードの数々も、宝石のように輝いていました。
当時のテレビとは、なんと新しくて、楽しくて、エネルギーに満ちた世界だったのでしょう。

私は幼い頃、黒柳さんの自叙伝で大ベストセラーとなった『窓ぎわのトットちゃん』が大好きでした。例にもれず、装丁がボロボロになるほど夢中でページを繰りました。ほつれたり破れたりしたページは、親がテープで何度も補修してくれましたので、いわさきちひろさんの淡い水彩画の挿絵も、パッチワークのようになってしまいましたが。

あまりにもお気に入りで、本で読むだけでは飽き足らず、黒柳さん自身が『窓ぎわのトットちゃん』を朗読したレコードも毎日のように聴いていました。
『トットちゃん』のレコードを最もよく聴いていたのは、33年前のちょうど今頃、昭和58年6月のことでした。当時は日本海中部地震の発生から1か月ほどの頃でしたから、大きな余震があると地震を知らせるサイレンが市内に鳴り響く毎日。我が家では、余震があったらすぐに避難できるように、寝室よりも避難しやすかった居間に布団を敷いて、家族4人、川の字で寝ていました。

毎晩寝る時、両親にかけてもらった『トットちゃん』のレコード。
物語は、トットちゃんが通う学校(廃車となった電車を利用した校舎)でお弁当の時間に歌う「よく噛めよ」の歌などで明るく始まりますが、時は第二次世界大戦の真っ只中ですから、やがて物語にも不穏な空気が満ちてきます。
レコードの後半(B面)ではいよいよ戦争が激しくなり、ついには校舎も空襲で焼け落ちてしまいます。このシーンは何度聴いても悲しく、恐ろしく、また、余震を知らせる現実のサイレンとレコードから流れる空襲警報がリンクしてしまったため、あまり好んでは聴きませんでした。

それでも『窓ぎわのトットちゃん』を繰り返し読み、このレコードを毎晩聴き続けたのは、黒柳さん自身の軽妙な語り口が楽しかったのはもちろんのこと、黒柳さんが自叙伝に込めた思い―今改めて感じるのは「祈り」とでも言うべき真摯な願い―を、幼いながらに感じ取っていたからでしょう。

最後に。先日、レコード版『トットちゃん』の音楽を担当した作曲家の小森昭宏さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

 

今朝のお供、
マイルス・デイヴィス(アメリカのジャズミュージシャン)の『Kind of Blue』。
今年はマイルスの生誕90周年。

(佐々木 大輔)

絵本のはなし

年が明けてから、あまり明るいとはいえないニュースが続き、また、人々の過剰な反応にも息苦しさを感じておりましたが、そんな中、大人の間で絵本が再び注目されているという記事にふと目を奪われました。
私は、絵本のことを思うと懐かしさがこみ上げ、不思議と穏やかな気持ちになります。
私が大人になった今も読書好きである原点には、幼い頃、両親から読み聞かせてもらった絵本の体験があります。
楽しい絵本、美しい絵本、そして怖い絵本。
なかでも特に思い出に残っているのは、せなけいこ著『ねないこ だれだ』です。親が子を寝かしつけるためのいわゆる教育絵本というものでしょうか。

夜の9時。
「とけいが なります ボン ボン ボン…」
「こんな じかんに おきてるのは だれだ?」
「ふくろうに みみずく」
「それとも どろぼう」
「いえ いえ よなかは おばけの じかん」。

挿絵は切り絵で、ふくろうや泥棒が何とも言えない不気味さを醸しています。
パジャマ姿でぬいぐるみを持って夜更かしをしている男の子、最後はおばけに連れられて(男の子もおばけのシルエットになって)、夜空に飛んで行ってしまいます。

とても怖い絵本でした。にもかかわらず、怖いもの見たさもあったのか、毎日のように「読んで、読んで」とせがんだと聞いています。
絵本の余白には、幼い私が書いた字とも絵ともつかない書き込みがたくさんあります。いたずら書きのようですが、よく見ると「これはふくろうを描きたかったんだろうな」と思わせるような書き込みがあったり、ストーリーを追いかけるように線が引いてあったり、改めて手に取ってみても、本当にお気に入りの絵本だったんだなあということが分かります。

江國香織はその著書『絵本を抱えて 部屋のすみへ』の中で、子供の頃に部屋の隅で遊んでいると、もっと真ん中で遊びなさいと言われたことを引き合いに、「でも部屋というものは、まんなかとすみでは時間の流れ方も空間の質も全然ちがうわけで、絵本のなかのそれとは、あきらかに部屋のすみの方が近いのでした」と書いています。

私の場合、少し大きくなって自分で絵本を読むようになってからは、部屋のどこで絵本を広げて読んでいたのか覚えていませんが、幼い頃は、寝る前に布団の中で読んでもらうのが好きでした。
その影響が残っているのでしょう、今も読書をするのに一番落ち着く場所は、カフェでもバーでもソファでもなく、ベッドの中です。

 

今朝のお供、
デヴィッド・ボウイ(イギリスのミュージシャン)の『★(ブラックスター)』。
ボウイは最期まで変わらなかった。「マンネリ」という意味ではなく、常に進化を続ける姿勢を貫いたという意味で。
たくさんの色気と華と毒をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

(佐々木 大輔)

辞書を読む

先日、寄席に行ってきたという友人の影響で、私も立川志の輔氏の現代落語『バールのようなもの』を楽しみました。

主人公が、ニュースなどでよく耳にする「バールのようなもの」とはどんなものなのかを知りたくて、物識りの隠居へ相談に行くところから噺は始まります。
隠居に、「のような」という言葉を名詞の後ろに付けて「○○のような」と言えば、それは○○とは似て非なるものである―何かを食べて「肉のような味がする」と言えば、その食べ物は「肉」ではないというように―と教わった主人公が、奥さんに浮気の言い訳をする際、浮気相手のことを「妾ではなく“妾のようなもの”だ」と言ったところ、「それは妾以外の何ものでもない。馬鹿な言い訳をするもんじゃない」とかえって奥さんを怒らせてしまい、「バールのようなもの」で殴られるというオチの噺です。

果たして「のような」とは隠居の説明どおりの意味なのか気になった私は、さっそく辞書を引いて「よう(な)」の意味を調べてみると、いくつかの定義と用例が並んでいる中に、
―(接尾語的に)…らしく見えるもの。…といったもの。
「刀剣―の凶器」―(『広辞苑』)
とあります。
なるほど。これが隠居の言っていた意味でしょう。
さすがに用例として「バールのようなもの」とは載っていませんが、それにしても辞書というのは物識りですねえ。別に上の隠居と掛けて擬人化するわけではありませんが、辞書も結局は人が作ったものです。

数年前、辞書製作の裏側を舞台とした三浦しをん氏の小説『舟を編む』(第9回本屋大賞受賞)が話題となりました。小説ですから多少なりともデフォルメされているものかと思いきや、『三省堂国語辞典』の編纂者である飯間浩明氏の著書『辞書を編む』を読むと、実際の辞書は、小説の登場人物を凌ぐほどの猛者たちによって作られていることが分かります。
用例集めは昼夜を問わず、テレビ番組は録画して確認することを原則とし、新聞は言わずもがな、ファッション雑誌に出てくる造語、女子高生の会話まで、気になる言葉はすべてメモを取り、その使われ方、使用頻度を調査したうえで、採用する言葉、その語釈を決定するのだそうです。

誰もが知っている言葉でありながら説明の難しい言葉を、いかに分かりやすく説明(語釈)するか。それぞれの辞書が最も腐心する部分です。
たとえば「右」という言葉について、多くの辞書では、「南を向いた時、西にあたる方」(『広辞苑』)のように、方角を用いた説明がなされている中、『岩波国語辞典(初版)』の「この辞書を開いて読む時、偶数ページのある側」という説明は、画期的な名語釈として語り継がれているそうです。しかしこの名語釈も、電子辞書の時代には通じなくなるおそれがあります。

言葉の専門家をもってしても、分かりやすくものごとを伝えることは一生の課題なのかもしれません。時代にあわせて伝え方を変える必要も出てくるでしょう。
仕事はもちろん当ブログでも、分かりやすく簡潔に伝えることができるよう、私もすべからく努力していく所存です。
「辞書のようなもの」ではなく、「辞書」を目指して。

 

今朝のお供、
アデル(イギリスのミュージシャン)の『25』。

(佐々木 大輔)