考えさせられた

先日読んだ平野啓一郎著『ドーン』という小説は、久しぶりに読み応えのある作品でした。

ご存知の方も多いかと思いますが、平野氏は大学在学中にデビュー作『日蝕』で芥川賞を受賞。大学生の同賞受賞は、石原慎太郎(『太陽の季節』)、大江健三郎(『飼育』)、村上龍(『限りなく透明に近いブルー』)に続く4人目でした。その才能から三島由紀夫の再来と謳われた一方、擬古文で書かれた難解な文体により敬遠する人が多かったのも事実です。
恥ずかしながら私も、2作目の『一月物語』までは読んだものの、その後、平野氏の作品を手に取ることはありませんでした。

今回取り上げる『ドーン』は、平易な文章で書かれています。
舞台は近未来。主人公は、2033年に人類で初めて火星に降り立った宇宙船ドーンのクルー。3年後の2036年、無事地球へ帰還して世界的な英雄になりますが、ドーンの中で起こったある事件が原因で、アメリカ大統領選挙を巡る陰謀に巻き込まれていきます。

平野氏といえば、小難しい純文学ど真ん中の作家というイメージでしたが、本作はSFエンターテインメント小説としても楽しめます。
とはいえ、単なる娯楽で終わらないのは純文学作家の矜持なのか、ここで平野氏は、「分人主義(dividualism)」という概念を持ち出し、「私とは何か」というテーマに戦いを挑みます。
「分人主義」とは平野氏の造語で、個人(individual)とは分割不可能(divideできないもの)であるという概念に対し、個人とは分割可能な分人(dividual)の集合体であるという考え方です。

―対人関係や居場所ごとに、自動的に現れる異なった自分(分人)が存在するが、これは一個の主体が様々な仮面を使い分ける「キャラを演じること」とは区別される。「キャラ」は、一個の主体が場面に応じて操作的に使い分けるものであり、「分人」は向かい合う相手と協同的に個別に生じるものである―
平野氏はこのように考えます。

従来の意味での「本当の自分」に固執すれば、一個の主体ですべての相手や場面に対応しなければならなくなり、キャラを演じることにつながります。その結果として、人によっては、内面と外面のギャップに苦しむことになってしまいます。
「私」とは、一個の「本当の自分」ではなく、それぞれが独立した自分である各分人によって構成され、それらの自分を駆け巡りながら思考する存在だと考えれば、キャラを演じることから解放され、様々な顔を持つ自分のことも肯定することができるのではないでしょうか。

このようなテーマを、的確な表現で物語に落とし込んだ平野氏には、「文筆家、かくあるべし」との凄みを感じました。

 

今朝のお供、
サザンオールスターズの曲「Ya Ya(あの時代を忘れない)」。
秋の風に乗って、夕暮れ迫る宮城の空に鳴り響いた5年振りの音。

(佐々木 大輔)