今年は作曲家ショスタコーヴィチ(1906-1975)の没後50年。
初めて彼の交響曲第13番を聴いた時は、あまりの暗さに戦慄を覚えました。
ショスタコーヴィチは、ベートーヴェン以後、歴史に名を残した作曲家の中では、最も多くの交響曲を作曲した作曲家のひとりです。
第九の呪い。
偉大なる9曲の交響曲を作曲したベートーヴェン以後、歴史に名を残した著名な作曲家の多くは9曲を超える交響曲を作曲することができずにいました。
シューベルト8曲(9曲)、ブルックナー9曲、ブラームス4曲、ドヴォルザーク9曲、チャイコフスキー6曲・・・
そのうち交響曲を9曲作曲すると寿命が尽きるとのジンクスが言われるようになりました。
これに続いたのはマーラー。
第九の呪いを意識して、交響曲第8番の完成後に取りかかった次作の交響曲には番号をつけず、『大地の歌』と名付けました。
9つの交響曲を作曲し終え、マーラーはその後10番目の交響曲として第9番を作曲しましたが、次の第10番に手を付けたところで亡くなりました。
第九の呪いに打ち勝ったかのように思えたマーラーも、結局、番号付きの交響曲を9曲完成させて亡くなったのです(草葉の陰で何思う?)。
このマーラーの逸話を知っているショスタコーヴィチは、あえて交響曲第9番を小規模で軽妙な曲として書き上げて一気に第九の呪いを突破し、その生涯において15曲の交響曲を作曲しました。
ただし、この交響曲第9番は、第2次世界大戦での戦勝記念として(ベートーヴェンの第九のような)壮大な音楽を望んでいたロシア政府当局の意向に沿うものではなく、猛烈な批判にさらされたのでした。
なぜ、名だたる偉大な作曲家たちが9曲の壁に阻まれたのか。
それはベートーヴェンが交響曲を音楽芸術の最高峰に位置するものへと昇華させたためとされています。
のちの作曲家たちにとって交響曲を書くということが神聖な行為となりました(ベートーヴェン以前の作曲家、たとえばハイドンは100曲以上、モーツァルトは40曲以上の交響曲を残しており、交響曲はそれほど特別な音楽ではありませんでした。)。
ブラームスにいたっては、プレッシャーから最初の交響曲を作曲するのに20年以上を要し、その第1交響曲の曲風も評論家から「ベートーヴェンの第10交響曲だ」と揶揄されたものでした。
作曲家は、交響曲1曲ごとに自分の持っている芸術性、音楽性、テクニックなど全てをもって臨むため、9曲も作曲すればさすがにアイディアを使い果たし、年齢的にもそろそろ人生の終わりを迎えるということがよく言われます。
これが第九の呪いの正体であると。
閑話休題。
今年はショスタコーヴィチをじっくり聴きたいと思い、交響曲全曲のほか協奏曲やオペラを収録した輸入盤CDボックスセットを注文しているのですが、まだ届いておりません。
人気なのか、メーカーへの取寄せが続いております。
そもそも今の時代、CDで聴こうという人が少なくて、製作されているセットの個数が少ないのか。
届くまでは、まずは手元にある3種類の交響曲全集を改めてしっかり聴き込みたいと思います。
今朝のお供、
Franz Ferdinand(イギリスのバンド)の『You Could Have It So Much Better』。
(司法書士 佐々木 大輔)
当ブログ、業務多忙のため遅れることもありますが、原則として毎月月末に配信いたします。
先日、映画『セッション』(デジタルリマスター版)を映画館で観ました。
『セッション』は2014年(日本では2015年)に公開され、アカデミー賞3部門を受賞した名作です。
今回、公開10年を経て、デジタルリマスター版が上映されました。
オリジナルの『セッション』は、私が2年前の今頃、アマゾンプライムビデオで最初に観た映画でした。
当時はスマートフォンの小さな画面で観たものですから、思い出の作品(しかもデジタルリマスター版)をスクリーンで観られるなんてこれ幸いと、すぐに映画館へ向かいました。
――主人公のニーマンは、バディ・リッチのように偉大なドラマーになるという野望をもって名門音楽院に入学する。
伝説の鬼教師として知られるフレッチャー教授のバンドにスカウトされて喜ぶが、彼を待ち受けていたのは体罰も日常茶飯事の常軌を逸した過酷なレッスンだった。わずかなミスも許さない完璧主義者のフレッチャーは、学生を身体的、精神的にも追い詰めていくが、それに食らいつこうとするニーマンの執念もすさまじい。
ラスト9分19秒、両者の狂気はついに頂点に達する――
これを単に時代にそぐわないパワハラ、アカハラ映画と切り捨てていいものか。
フレッチャーはニーマンに対し、「自分の使命は偉大なミュージシャンを育てること。学生にはジャズ界の伝説になってほしいと願っている。チャーリー・パーカーが伝説になれたのは、ジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられたから(悔しさをバネにして一流になった)」と語ります。
そして「最も危険な言葉はGood job!(上出来だ)という言葉だ」とも。
フレッチャーは才能ある者が立ち向かってくるのを期待したのでしょう。
ニーマンはフレッチャーの意を汲み、未来のチャーリー・パーカーになる勝負に出たのかもしれません(もちろん、なれる保証など何もないけれど)。
一方、このような指導により有能な者が潰される例も多々あること。
これはどんな世界でも起こる問題です。
映画のクライマックス、フレッチャーとニーマンの師弟間における復讐vs復讐の様相を呈し、ラスト9分19秒へと至るのですが、この特別な時間によってふたりは分かり合えたのか、反目したままなのか、それとも一体化したのか。
映画としては素晴らしい作品です。
ただ、この映画に私の好きな「音楽」はありません。
世の中ではこのような方法で音楽と呼ばれるものが作られているのも事実です。
しかしこのようにして生み出されたものを、私は好みません。
今朝のお供、
吉井和哉(日本のミュージシャン)の曲「FLOWER」。
(司法書士 佐々木 大輔)
今年で放送開始100年。
100年前の大正14年3月22日、ラジオ放送が開始されました。第一声は「聞こえますか?こちらは東京放送局」だったそう。
私は割と早くからラジオに親しんでおり(といっても、祖父母の家からの帰りに父親の車で聴く野球のナイター中継がほとんどでしたが)、中学生になるとラジオから流れてくる洋楽に心を躍らせるようになりました。
今のようにインターネットが発達しておらず、好きな曲をいつでも聴くことができる時代ではありませんでしたし、情報収集もなかなか大変でした。
そんな時代にラジオは貴重な情報源であり(他は月刊誌くらい)、土曜の午後に放送されていた「ポップス・ベスト10」と日曜の深夜に放送していた「全国ポピュラーベストテン」という番組で、私は当時の洋楽のヒット曲とたくさん出合いました。
加えて「ヘヴィメタルシンジケート」というハードロック/ヘヴィメタル(HR/HM)専門番組によって、HR/HMの世界に引きずり込まれました。
高校生になるとオールナイトニッポンなどの深夜番組の虜に。
ラジオの魅力は何といってもパーソナリティと1対1で話しているかのような親密性にあります。
話の中身はとてもじゃないけどテレビなどでは流せない過激な?ものだったりして(近年はコンプライアンスの関係で発言もかなり穏やかになっております)。
これらの発言も、結局のところリスナーとパーソナリティとの間に築かれた信頼関係のもとに成り立っているものです。
学生時代、一人暮らしの部屋でさみしさを埋めてくれたのもラジオでした。
その後、改めて日常的にラジオを聴くようになったのは東日本大震災の頃から。
震災直後は停電になったため、情報収集は電池式のラジオでした。
電気が復旧した後も、いつ緊急地震速報が鳴るか分かりませんので、寝る時もラジオをつけっぱなしで過ごしていました。
ラジオ放送開始当時、特に求められたのは、いち早く災害等の被害状況を伝え、救援活動につなげることでした。それは現在も変わりありません。
と同時に、正確な情報を伝えるラジオ放送が求められたそもそものきっかけは、関東大震災の際に流布されたデマにより引き起こされた悲劇を、繰り返さないためであることを忘れてはなりません。
SNS(X(旧ツイッター)など)が発達し、誰もが情報や主張を気軽に発信できる今、改めてその意義を考える必要があります。
情報発信者として、自らの発言に責任と覚悟を持てますか。
その“正義”、あなたは自分に向けることができますか。
今朝のお供、
Carpenters(アメリカのデュオ)の曲「Yesterday Once More」。
若かった頃ラジオを聴いていたんだ お気に入りの曲がかかるのを待ちながら
全ての曲や思い出が 今でも輝いている
まるで昨日のことのように
(司法書士 佐々木 大輔)