現在、秋田県立美術館と秋田市立千秋美術館の2会場で、『ミネバネ!現代アート タグチアートコレクション』が開催されています。
解説によると、「タグチアートコレクション」とは、実業家の田口弘氏と娘の美和氏の2代にわたって収集された、アメリカ・ヨーロッパ・中南米・アフリカ・アジア・日本など世界各地の現代アート作品からなる国内有数のコレクションであるとのことです。
『ミネバネ!』展では、奈良美智、村上隆、キース・ヘリングなどグローバルに活躍する作家たちの作品約100点を鑑賞することができます。
個人的にはU2(世界的なロックバンド)のCDジャケットにも使用された杉本博司氏によるモノクロの水平線の写真に興味あり(CDジャケットに使われたのはボーデン湖の写真、今回展示されているのは同じ構図の北海道の写真)。
ところで、そもそも現代アート、もっと言えばアート(美術)とは何なんでしょう。
例えばデュシャンは、便器をただ置いただけのものを『泉』という作品として発表しました。
ウォーホルは、市販の「ブリロ」という商品の段ボール箱をそっくりそのままつくって(ただし素材は段ボールではなく木の板)、『ブリロボックス』という作品として発表しました。
デュシャンが『泉』で用いた便器は工業製品であり、どこにでもあるものです。
デュシャン自身がデザインしたり制作したものでもありません。
しかも便器は美しいものではありません。美術の対極にあると言ったら言い過ぎでしょうか。
「ブリロ」の箱もウォーホルがデザインしたものではありませんから、言うなればウォーホルは真似をして同じものを作ってみただけです。
もしウォーホルの『ブリロボックス』がアートであるなら、オリジナルの「ブリロ」のデザインも(それ以上の)アートと評価されなければ筋が通りません。
となると、アートとはいったいなんだろうという疑問がわきます。
アーティスト側が「これはアートだ」と言えば、どんなものでもアートなのでしょうか。それはあまりにも傲慢な気がします。
しかし、アーティストは自らが「アートだと思うもの」を作品として世に問うのが必然ですから、それがアーティスト側の一方的な意思表示や自己満足に終わらないためには、私たち鑑賞者がそれを「アートである」と受け入れる必要があるのではないでしょうか。
鑑賞者が受け入れてこそ、初めてその作品が「アート」として成立する、つまり(不遜な言い方に聞こえるかもしれませんが)、私たち鑑賞者側も「アート」の成立に大きな役割を担っているように思います。
よって、現代アートの面白さは、ひとつ、未だ評価の定まっていない進行形の作品が「アート」として成立していく過程に鑑賞者として関与していくこと、ともにつくり上げていくことにあるのではないかと考えます。
以上、ついつい御託を並べてしまいましたが、実は私、まだ『ミネバネ!』展を鑑賞していません。
9月7日までの開催なので、早く観ねばね!
今朝のお供、
デヴィッド・ボウイ(イギリスのミュージシャン)の『LOW』。
(司法書士 佐々木 大輔)
先日、今話題の映画『国宝』を観てきました。
任侠の家に生まれて歌舞伎役者に引き取られた主人公喜久雄と、歌舞伎の名門に生まれた俊介。
ふたりが芸の道に人生を捧げた50年にわたる壮大な物語。
作家吉田修一氏が3年間歌舞伎の黒衣をまとい、楽屋に入った経験を血肉化し、書き上げた小説が原作であり、すでに原作は芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞しております(いずれも2019年)。
李相日監督が吉田作品を映画化するのは『悪人』、『怒り』に続き3作目。
前2作も見ごたえのある映画でしたが、本作はそれらを凌駕する素晴らしい映画でした。
物語半ば、本来であれば俊介が代役を務めるはずの舞台で、喜久雄が代役を務めることとなる場面があります。
そこで重圧に震える喜久雄が俊介に対して発する「俊坊の血が欲しい」という悲痛な言葉。
芸は評価されるが「血」がない喜久雄と、芸ではかなわないが「血」がある俊介。
伝統芸能の世界において絶対的な意味を持つ血脈のもと、翻弄されながらも必死にあがき闘うふたりの葛藤が強く印象に残りました。
原作は上下巻の大作。3時間を要する映画でも描き切れなかった場面がたくさんあります。
私は原作を先に読んでから映画を観ましたが、映画を観てから原作を読んでも十分楽しめると思います。
むしろ、映画の世界をより深く理解することができると思いますので(映画では出番の少なかった登場人物の胸の内などが掘り下げて描かれています)、映画をご覧になって興味をもたれた方は原作も手にされることをお勧めします。
私は歌舞伎の舞台を観たくなりました。
原作者の吉田修一さんのことは昔からファンで、彼の小説はほとんど読んでいます。
吉田修一さんは文学界新人賞を受賞した『最後の息子』でデビューし、その後『パークライフ』で芥川賞を受賞した純文学作家でありますが、『パレード』では山本周五郎賞を受賞するなど、純文学、大衆文学の垣根を超えて活躍されている作家です。
ちなみに、私の吉田修一作品TOP5は、『パレード』、『悪人』、『横道世之介』、『怒り』そして今回の『国宝』です(順不同)。
ところで、先日、芥川賞と直木賞の発表がありましたが、両賞とも27年ぶりに該当作なしという残念な結果でした。
とはいえ、文学賞は芥川賞や直木賞が全てではなく他にもたくさんありますし、もっと言えば文学賞受賞作でなくても優れた作品はたくさんあります。
映画も文学も音楽も、他者の評価に委ねることなく楽しむのが一番です。
なんて、話題の映画に感動しながら言ったところで説得力がありませんけど。
今朝のお供、
オジー・オズボーン(イギリスのミュージシャン)の『BLIZZARD OF OZZ』。
R.I.P.オジー。
(司法書士 佐々木 大輔)
「おばあちゃん、何読んでるの?」
学生時代、祖父母の家に行った時、祖母がなにやら年季の入った本を読んでいるなあと思って聞いたところ、井上靖の『氷壁』とのこと。「ちょっといい?」と言って本を受け取り、(状態があまりきれいとは思えなかったので)指先で軽くつまむようにしてページをめくり奥付を見たら、なんと初版本。
祖母曰く、「若い頃から家にあった本なのよ。何度読んでも素晴らしい本」。
祖父母の家には本がたくさんありました。
田舎の家ですのでスペースだけは十分だったため、祖父母が読んだ本ばかりではなく、親戚中から各家で収納できなくなった本が集まっていたのです。
だからベストセラーものなどは同じ本が何冊もあったりして。
祖父の書斎だけは少し毛色が違い、郷土史の本や詩集などがたくさんありました。
どの部屋にも本棚があり、本がぎっしり詰まっていたのですが(2階の廊下は本棚の重みで傾いでいました。危なかった)、夏休みなどに私の家族が泊まる部屋には、大江健三郎著『万延元年のフットボール』、阿部公房著『砂の女』、三島由紀夫著『豊饒の海』など名作の初版本がずらり。
そしてこれらは、後に古本屋さんなどで買い集めた初版本コレクションではなく、発売当時純粋に読みたくて、親戚のみんなが銘々新刊で購入したものでした。
幼い頃から「なんだか古いけど箱に入った立派な本が並んでいるなあ」と思い眺めていた本棚、少し大人になって改めて見ると垂涎のお宝でした。
「おばあちゃん、何読んでるの?」
またある時、祖母が読んでいたのは俵万智著『サラダ記念日』でした。
祖母は生涯にわたり短歌を詠んでいましたので、歌集を開いていても不思議はないのですが、祖母にとってのサラダ記念日って、美空ひばりを聴いている世代が安室奈美恵や宇多田ヒカル(※)の歌を聴くようなものじゃないの?なんて少し意地悪に思いながら、「どうなの、『サラダ記念日』って」と、どこかで祖母の批判的な答えを期待して聞いてみたのですが、意外にも返ってきた答えは「日常をこんなにもみずみずしく切り取ることができる感性が素敵。おばあちゃんにはとても詠めないわ」でした。
むしろ祖母の感性の若さに感心したものです。
そしてその『サラダ記念日』も、発売当時、新刊でいち早く購入したものだったそう。
――「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日――
7月6日が近づくと、この歌とともに祖父母の家の本棚を思い出します。
祖父母も亡くなり、今はその多くが処分され、だいぶすっきりした祖父母の家ですが、心に残る読書体験は、親戚一同の豊かな感性を育んだと思いたい。
今、2歳8か月の姪が夢中で絵本を読んでいます。
姪っ子よ、そのつぶらなおめめで「なによんでるの?」
※ 新しい世代のたとえが古くてすみません。でも、祖母にこの質問をしたのが25年くらい前ですので当時は彼女たちの歌が最先端だったんです。
今朝のお供、
GAMMA RAY(ドイツのバンド)の『INSANITY AND GENIUS』。
(司法書士 佐々木 大輔)