―俺が仕事をすると、いつも降るんだ―
そろそろ梅雨の時期ですね。雨の季節になると思いだす言葉、伊坂幸太郎の短編集『死神の精度』の文庫版に書かれたキャッチコピーです。
小説の主人公である千葉は、クールな死神。
死神界の「調査員」である千葉の仕事は、定期的に人間界に派遣され、ターゲットとなっている人間を7日間観察し、その生死を決定するというもの。そして千葉が仕事をする時、いつも雨が降っています。
登場する死神は、千葉に限らず、皆システマチックに仕事をこなし、情に流されることもないので、ほとんど例外なく「可」、すなわちターゲットについて「死」の判断を下すこととなります。
千葉は人間界の常識や価値観に疎く、話す内容もちょっとずれていて、人間との会話が微妙にかみ合いません。
そればかりか千葉は、(人間にとっては)気取ったセリフも大真面目で口にしますが、死神が発する言葉と思えば不思議と嫌味もこそばゆさもありません。むしろ、ちょっと可笑しいくらい。
そんな千葉が、仕事のためとはいえ、あるときは名探偵さながらに殺人事件の推理を展開し(「吹雪に死神」)、そうかと思えばターゲットの恋愛相談にも応じ(「恋愛で死神」)、さらには美容院をひとりで営む老女の奇妙なお願いまでも聞き入れます(「死神対老女」)。
本作品は連作短編集であり、収められた各短編はそれぞれ関連しています(どのように関連しているかは、読んでからのお楽しみ)。
素敵な場面はたくさんありますが、私が最もお気に入りなのは、「晴れを見た例しがない」千葉が、初めて晴天を望んだとき、隣に並んで眩しそうにするターゲットの顔を見て、「人間というのは、眩しい時と笑う時に、似た表情になるんだな」とつぶやく場面。それに対して、「眩しいのと、嬉しいのと。(言われてみれば、意味合いも)似てるかも」と応じるターゲット。
全編雨雲が垂れ込めた世界に差し込んだ爽やかな光には、希望が宿り、胸が躍ります。
今朝のお供、
Creedence Clearwater Revival(CCR。アメリカのバンド)の曲「雨を見たかい」。
(佐々木 大輔)
今年はフィンランドの作曲家シベリウスの生誕150周年。
そこで今回は、私が特に好むシベリウスの曲を2曲紹介します。
最初に紹介するのは交響曲第5番。
7曲あるシベリウスの(番号付き)交響曲の中で、最もポピュラーなのは第2番かと思いますが(もちろん私も大好きです)、私が今最も惹かれるのは第5番の交響曲です。
とてもユニークな構成で、特に最終楽章の終結部は、初めて演奏会で聴いたとしたら、どのタイミングで拍手をすればいいのか分からないような、ベートーヴェンもびっくりの終わり方です。
私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団による演奏。大胆な強弱や緩急をつけて趣向を凝らした演奏は、シベリウスというよりは、ラトルの才気を強く感じさせるものですが、キレのあるリズムや見通しのよい音づくりにより、陽光はきらめき、若草は爽やかに香ります。
件の終結部は輝かしく、数ある同曲異演の中でも説得力は群を抜いているように思われます。
次はヴァイオリン協奏曲を。
開放的な第5交響曲に対し、北欧の冷たい空気を思わせる張りつめた緊張感と洗練されたリリシズムが魅力的な曲です。
私はこの曲を、高校生の時に買ったアンネ=ゾフィー・ムターの演奏によって知ったものですから、ムターの演奏が私にとっての原体験となっています。
とはいえ、その後いろいろな演奏を聴くにおよび、ムターの演奏は(名演であることに疑いの余地はありませんが)この曲本来の姿からすれば、かなり異端な演奏ではないだろうかと感じるようになりました。
むせ返るほど濃厚なこの演奏に対して、「これはシベリウスではない」と拒否反応を示す方もいるでしょう。
最近、もう少し繊細なヴァイオリンを聴きたいときは、クリスチャン・フェラスのレコードに針を落とすことにしています(共演はカラヤン指揮ベルリン・フィル)。
ほの暗い色気を湛え、死のにおいもそこはかとなく漂うフェラスの演奏。惜しむらくは、オーケストラが重すぎること。
しかし、フェラスの繊細なヴァイオリンを、風に折れそうになりながら必死に耐え忍ぶ一輪の花と聴けば、それはそれで素敵な演奏なのかもしれません。
好きな曲を気分に応じて何種類かの演奏で楽しむ。
世間の評価は別として、自分にとっての名演を探す。
それは音楽のもっとも美味しい楽しみ方(と私は思います)であり、禁断の果実でもあります。
この味を知ってしまった以上、もう、後戻りはできません。
その代償として、同曲異演のCDやレコードが際限なくたまります。
今朝のお供、
METALLICA(アメリカのバンド)の『Master of Puppets』。
(佐々木 大輔)
三十一文字。みそひともじ。
制約の中で世界を表現する。
私自身は短歌を詠みませんが、祖母が日常生活や孫たちの成長を折に触れて詠んでいましたので(今でも現役で詠んでいます)、幼いころから短歌をわりと身近に感じてきました。
私が好きな春の歌のひとつに、俵万智氏の作品で、
「ふうわりと並んで歩く春の道 誰からもみられたいような午後」
という歌があります。
穏やかな春の日差しの中、幸せに包まれたカップルの誇らしげな気持ちが伝わってくる良い歌ですね。
このふたりは付き合いはじめてまだ日が浅いのかな。世界中に愛を叫ぶような力強さではなく、誇らしさの中にほんのりとした気恥ずかしさも包含されているように感じられます。
この歌が完成形として歌集に収められるまでには、当たり前ですが、何度も手直しを行ったと俵氏もその著書『短歌をよむ』で解説しています。
初稿の上の句は「ふうわりとふたり並んで歩く道」だったそうですが、なんとしても春の気分を表したくて、上の句を「ふうわりと並んで歩く春の道」と直したところ、初稿の「ふうわり」「ふたり」の「ふ」の響きあいも捨てきれず、「ふうわりとふたりで歩く春の道」へと再修正。しかし、「ふたりで」と説明するよりも、「並んで」という言葉から「ふたり」を想像する方が素敵であると考え、歌集に収めた形がベストであると判断したとのことです。
短歌は、文章を書く上でも大変参考になります。
説明しすぎないこと。簡潔、かつ、読む人の想像に働きかける表現を心がけること。
伝えたい気持ちが溢れて、言葉が過剰になってしまうこともあります。一方、仕事の上では潤いのない文章を書かざるを得ない場面もあります(私の場合はほとんどかもしれません)。
短歌を観賞することは、研ぎ澄まされた言語表現の豊潤さを味わいながら、言葉の奥深さに唸らされるとともに、自分の書いた文章(言葉)と徹底的に向き合い、何度も修正を重ねることの大切さを教えてくれます。
今朝のお供、
サザンオールスターズの『葡萄』。
忘れたいことばかりの春だから ひねもすサザンオールスターズ
―俵万智
(佐々木 大輔)