今年はフィンランドの作曲家シベリウスの生誕150周年。
そこで今回は、私が特に好むシベリウスの曲を2曲紹介します。
最初に紹介するのは交響曲第5番。
7曲あるシベリウスの(番号付き)交響曲の中で、最もポピュラーなのは第2番かと思いますが(もちろん私も大好きです)、私が今最も惹かれるのは第5番の交響曲です。
とてもユニークな構成で、特に最終楽章の終結部は、初めて演奏会で聴いたとしたら、どのタイミングで拍手をすればいいのか分からないような、ベートーヴェンもびっくりの終わり方です。
私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団による演奏。大胆な強弱や緩急をつけて趣向を凝らした演奏は、シベリウスというよりは、ラトルの才気を強く感じさせるものですが、キレのあるリズムや見通しのよい音づくりにより、陽光はきらめき、若草は爽やかに香ります。
件の終結部は輝かしく、数ある同曲異演の中でも説得力は群を抜いているように思われます。
次はヴァイオリン協奏曲を。
開放的な第5交響曲に対し、北欧の冷たい空気を思わせる張りつめた緊張感と洗練されたリリシズムが魅力的な曲です。
私はこの曲を、高校生の時に買ったアンネ=ゾフィー・ムターの演奏によって知ったものですから、ムターの演奏が私にとっての原体験となっています。
とはいえ、その後いろいろな演奏を聴くにおよび、ムターの演奏は(名演であることに疑いの余地はありませんが)この曲本来の姿からすれば、かなり異端な演奏ではないだろうかと感じるようになりました。
むせ返るほど濃厚なこの演奏に対して、「これはシベリウスではない」と拒否反応を示す方もいるでしょう。
最近、もう少し繊細なヴァイオリンを聴きたいときは、クリスチャン・フェラスのレコードに針を落とすことにしています(共演はカラヤン指揮ベルリン・フィル)。
ほの暗い色気を湛え、死のにおいもそこはかとなく漂うフェラスの演奏。惜しむらくは、オーケストラが重すぎること。
しかし、フェラスの繊細なヴァイオリンを、風に折れそうになりながら必死に耐え忍ぶ一輪の花と聴けば、それはそれで素敵な演奏なのかもしれません。
好きな曲を気分に応じて何種類かの演奏で楽しむ。
世間の評価は別として、自分にとっての名演を探す。
それは音楽のもっとも美味しい楽しみ方(と私は思います)であり、禁断の果実でもあります。
この味を知ってしまった以上、もう、後戻りはできません。
その代償として、同曲異演のCDやレコードが際限なくたまります。
今朝のお供、
METALLICA(アメリカのバンド)の『Master of Puppets』。
(佐々木 大輔)
三十一文字。みそひともじ。
制約の中で世界を表現する。
私自身は短歌を詠みませんが、祖母が日常生活や孫たちの成長を折に触れて詠んでいましたので(今でも現役で詠んでいます)、幼いころから短歌をわりと身近に感じてきました。
私が好きな春の歌のひとつに、俵万智氏の作品で、
「ふうわりと並んで歩く春の道 誰からもみられたいような午後」
という歌があります。
穏やかな春の日差しの中、幸せに包まれたカップルの誇らしげな気持ちが伝わってくる良い歌ですね。
このふたりは付き合いはじめてまだ日が浅いのかな。世界中に愛を叫ぶような力強さではなく、誇らしさの中にほんのりとした気恥ずかしさも包含されているように感じられます。
この歌が完成形として歌集に収められるまでには、当たり前ですが、何度も手直しを行ったと俵氏もその著書『短歌をよむ』で解説しています。
初稿の上の句は「ふうわりとふたり並んで歩く道」だったそうですが、なんとしても春の気分を表したくて、上の句を「ふうわりと並んで歩く春の道」と直したところ、初稿の「ふうわり」「ふたり」の「ふ」の響きあいも捨てきれず、「ふうわりとふたりで歩く春の道」へと再修正。しかし、「ふたりで」と説明するよりも、「並んで」という言葉から「ふたり」を想像する方が素敵であると考え、歌集に収めた形がベストであると判断したとのことです。
短歌は、文章を書く上でも大変参考になります。
説明しすぎないこと。簡潔、かつ、読む人の想像に働きかける表現を心がけること。
伝えたい気持ちが溢れて、言葉が過剰になってしまうこともあります。一方、仕事の上では潤いのない文章を書かざるを得ない場面もあります(私の場合はほとんどかもしれません)。
短歌を観賞することは、研ぎ澄まされた言語表現の豊潤さを味わいながら、言葉の奥深さに唸らされるとともに、自分の書いた文章(言葉)と徹底的に向き合い、何度も修正を重ねることの大切さを教えてくれます。
今朝のお供、
サザンオールスターズの『葡萄』。
忘れたいことばかりの春だから ひねもすサザンオールスターズ
―俵万智
(佐々木 大輔)
良いものを長く使う。
「良いもの」の定義、というと堅くなってしまいますが、あくまでも私にとっての基準として、気に入ったデザインのもの(品のあるもの)、つくりが良質なもの、職人さんのこだわりが伝わるものを「良いもの」と考えます。
たとえば、お酒を飲むとき、良質な器やグラスを使う。
杜氏さんへ敬意を表して。
大切な人へ手紙を書くとき、良質な筆記具を使う。
景品のボールペンで書いてしまっては、相手に気持ちが伝わらないような気がして。
ちょっとこだわるだけで、心も豊かになります。
若い頃は、新しいものに目移りがして、「質より量」に重きをおきがちでしたが、現在の愛用品を見てみると、どれも10年近く(あるいはそれ以上)使用していることに自分でも驚きます。
長期の使用に耐え得るためには、何よりもまずつくりがしっかりしていなければなりません。また、メンテナンスをしながらでも使い続けたいという思い入れも必要です。私の場合、あまりにデザインが奇抜すぎるもの、流行を追いすぎたものは、飽きてしまうのも早い気がします。
長く愛用するためには、購入する時点で納得のいくものを選ぶ審美眼を養わなければなりません。
私が思う良いものとは、けっして「高額なもの」ということではありません。
高額品ではなく「高級品」。
もちろん、高級な品である限り、ある程度高額になるものもあります。しかし、そのぶんだけ、頑張って購入したのだから大切にしようという気持ちと、良質であるが故に長期の使用に耐え得るというその物自体がもつ性能の相乗効果により、より長く愛用できるようになります。
季節も暖かく春めいてきました。
愛用品に感謝を伝えながらお手入れをするにはよい時期です。
私は、まず、チェロのお手入れから始めることにしましょう。
今朝のお供、
The Prodigy(イギリスのバンド)の『The Fat of the Land』。
(佐々木 大輔)