このところすっかり映画にはまってしまい、1日1本を目安に観ています。といっても、手にする初見の映画と馴染みの映画の比率は2:8といったところで、結局、馴染みの映画を繰り返し観ているだけのような気もしますが・・・。
今回は、最近観た中から、何度観てもいいなあと思う映画を紹介します。
『スティング』。
鮮やかな逆転劇。大どんでん返し。内容に触れてしまうとせっかくの仕掛けが台無しになってしまうので、まだご覧になられていない方はぜひ見事に騙されてください。
なので、今回取り上げるのは衣装。私の大好きな『ローマの休日』でも衣装を担当したイーディス・ヘッドが担当しています。『ローマの休日』ではアン王女の可憐な雰囲気を演出していましたが、本作では伊達男のスーツファッションを堪能させてくれます。それにしても、若かりし頃のロバート・レッドフォードは、(全盛期の?)ブラッド・ピットそっくりだなあ。
『セント・オブ・ウーマン』。
盲目の偏屈な退役軍人フランク中佐を演じるアル・パチーノの迫力に圧倒される作品です。
帰省の費用を稼ぐため、苦学生チャーリーがすることとなったアルバイトは、中佐の姪一家が家族旅行に出掛けている間、中佐の身の回りの世話をするというもの。
レストランで出会った若い女性とタンゴを踊るシーンや、チャーリーの必死の説得で自殺を思いとどまるシーンなど、徹頭徹尾アル・パチーノの熱演に引き込まれますが、物語としては、最後、中佐がチャーリーを救うために一席打つという、いかにもアメリカ的な結末によって尻すぼみになってしまうのがとても残念。ただし、この演説シーンにおけるアル・パチーノもやはり凄いので、一見の価値ありです。
『ノッティングヒルの恋人』。
ジュリア・ロバーツ扮するスター女優アナ・スコットと、ヒュー・グラント扮する流行らない書店の経営者ウィリアム・タッカー。映画撮影のためロンドンの平凡な街ノッティングヒルに滞在していたアナが、偶然ウィリアムの書店を訪れたことから始まるラブストーリーです。
立場の違うふたりの恋愛という設定は、まさしく『ローマの休日』(何度も取り上げてすみません)と同じ設定です。恋に落ちるのが唐突すぎるなどツッコミどころは多々ありますが、そもそもスター女優と一般男性が恋に落ちるという夢物語ですから、細かい理屈は抜きでいきましょう。
「私だってひとりの女性。目の前の人に愛されることを願っている」というアナの告白は、何度観てもウルッときます(言われてみたいものだ)。
そして最後の記者会見。『ローマの休日』へのオマージュとして、これ以上素敵な結末は考えられません。
さて、皆さんのお気に入りの映画は何ですか。
今朝のお供、
桑田佳祐の『がらくた』。
がらくたという名の15の宝物。
(佐々木 大輔)
―村上春樹とは、読む度、好きと思ったり嫌いと思ったり、アンビバレント(愛憎こもごも)な感情を抱く存在である―
今年2月に発表された村上氏の『騎士団長殺し』を読む準備運動として、村上氏の初期作品『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』(以上、青春三部作)を再読しました。村上氏の作品は、大学生の頃に初めて読んで以来、折に触れて読み返しています。
今回の再読で最も考えさせられたのは、青春三部作の中では人気も世評も控えめな『ピンボール』。「僕」と双子の姉妹との日常、そしてデビュー作『風の歌』から続く「鼠」との友情を描いた作品です。双子の姉妹がどこからかやってきて、どこかへといなくなってしまったように、「僕」は物事に執着することなく、ただ事実を受け流します。一方、「鼠」は街を出ていくことを決意します。
「鼠」は「僕」の分身であり、社会にコミットメント(関与)出来ないでいる「僕」が生み出した「僕のあるべき姿」ではないか、と私は考えます。
一般的に村上作品の登場人物は、物事にかかわりをもたず無関心であること(デタッチメント)を特徴とし、それが人間関係や社会に縛られたくないと思っている人々の共感を呼んでいるところもあるかと思うのですが、私が、「僕」は社会にコミット「しない」のではなく「出来ない」のだと感じるのは、本作における「鼠」の決断に至る葛藤が、失うことを恐れて決断出来ない「僕」の葛藤として映るからです。「僕」自身、変わらなければならないことを分かっているんじゃないのかな。
実際、村上作品は、『ねじまき鳥クロニクル』で「デタッチメントからコミットメントへの転換」があり、その姿勢は、地下鉄サリン事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』、阪神大震災を契機とした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に顕著です。
このような過去の作品とのつながりも考えながら、いよいよ最新作『騎士団長殺し』に突入。
果たして村上氏が本作で紡いだ物語は魅力的であったでしょうか。
残念ながら私は楽しめませんでした。それゆえ「私の好まない村上春樹」ばかりが目に付いてしまったようです。
謎の美少女、(井戸のような)穴と壁、都合のいい女性、お酒と料理と音楽・・・いつものレギュラーメンバー。
私の方が「やれやれ」と言いたい。
これらの「メタファー」を読み解くことが村上作品を読む楽しみであることは理解できます。しかし、その謎解きを楽しめるほど夢中になれなくなったのは、私が社会にコミットする立場にあり、(デタッチメントを脱したとはいえ)社会性の乏しい登場人物らに共感できなくなってしまったからかもしれません。
とはいえ、以上はあくまでも「物語」についての感想。
本作を通じて村上氏は何を語りたかったのか。
これについては私なりに感じるところがあり、深く考えさせられたことも事実。だからこそ、冒頭のアンビバレントな感情を抱きつつ、村上氏の作品から目が離せないのです。
今朝のお供、
ショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏によるR.シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』。
(佐々木 大輔)
ロックTシャツ。
ロックバンドのロゴやメンバー写真、アルバムジャケットなどがデザインされたTシャツです。
最近は街なかでも普段着としてロックTシャツをおしゃれに着こなす若者を見かけるようになり、ロックのすそ野も広がったものだなあと嬉しく思っていたのですが、事はそう単純でもないようです。
以前あるバラエティ番組で、ロックTシャツを着ている人にそのバンドの代表曲のイントロを聞かせて曲名を答えられるか検証するという企画を放送していましたが、検証結果はなんと9割以上の人が答えられないというもの。そればかりか、中には着ているTシャツのバンド名さえ知らない人もいたという衝撃的な結果!
確かに今では通販でも幅広く手に入りますし、バンドの音楽よりもデザインに惹かれてTシャツを購入したという人がいてもおかしくありません。
私がロックに夢中だった中学時代は、好きなバンドのTシャツを欲しいと思っても情報すらほとんどなく、雑誌の片隅に小さく載っていた取扱い業者―多くが新宿のマンションの一室で商売をしていました―に電話をかけて注文したり、雑誌の懸賞に応募したりしていたことを懐かしく思い出します。
いずれにしても選べるほどの種類はなく、各デザインにつきサイズもワンサイズ。明らかにオーバーサイズな海外サイズのLを購入せざるを得ないことも度々で、実際着てみるとやっぱりぶかぶか。
悲しいかなロック感よりもヒップホップ感の方が強かった・・・。
それでも手に入れられたことが嬉しくて、学生服の中に着て通学していました―本当は校則違反だったのかもしれませんが―。
その頃の思い出が詰まったTシャツは、さすがに現役ではありませんが、今でも大切に保管してあります。
そんなノスタルジックな思いもあり、私はロックTシャツにひとかたならぬこだわりがあります。
それは「好きなバンドのTシャツしか着ないこと」。
デザインがおしゃれだ、可愛いなどといった生ぬるい理由で、音を聴いたこともないバンドのTシャツを着ることはありません。
もっと言えば、ベストアルバム(ヒット曲だけを収録したもの)を持っている程度のバンドのTシャツも着ません。
そもそも、ロックTシャツがおしゃれだと思ったこともありません。
むしろ、「このダサいデザインのTシャツを身に着けられるほど、お前はこのバンドを愛しているのか」と挑まれている気がして、そのバンドに忠誠を誓うがごとき熱い気持ちで袖を通しているのです。
そんな訳で、昔は若気の至りもあり他人にも自分の価値観を押し付けがちで、聴いたこともないバンドのTシャツを着ている人に対して否定的でした。
最近は少し丸くなったのか、音楽を知らずに着ている人たちにも、ロックTシャツをきっかけにそのバンドの音楽を聴いてもらえたらいいな、そして本当にそのバンドのファンになってもらえたらいいなと思っています。
今朝のお供、
AC/DC(オーストラリアのバンド)の『Let There Be Rock』。
(佐々木 大輔)