相続

当事務所にはさまざまな依頼がありますが、相続登記でいらっしゃる方もたくさんいます。

そこで今回は人の権利がいつ発生するのかを考えながら、相続についてお話します。

お母さんのお腹の中にいる赤ちゃん(胎児)は、相続の権利がある「人」でしょうか?
胎児にも生命が宿っている以上権利があるという意見もあるでしょうし、実際に生まれてくるまではまだ権利が無いのではないかという意見もあるでしょう。
では、法律の世界ではどのように考えているのか。
民法を見てみると、権利を取得したり義務を負うこととなる能力の始まりは出生による、と書かれています。ちょっと分かりにくいですね。
「出生」とは、お母さんの体から胎児の全身が出ることをいうと考えるのが民法の世界では一般的です。
つまり胎児の段階では、まだ権利や義務は発生しないのです。
ところが裁判所は、相続や遺贈については、例外的に胎児はすでに「生まれたものとみなされる」と考えて、無事に誕生した場合に限り、相続の開始時点にさかのぼり相続権を取得できるとしています。
たとえば、お父さんが1月1日に亡くなった場合、胎児の段階では相続権はありませんが、その後無事に誕生すれば、1月1日にさかのぼって相続権を取得することになります。

ただし登記実務の世界では、胎児が相続や遺贈の対象となった場合には、胎児名義で、権利を取得したことを登記することができるのです。
裁判所の考え方によれば、1月1日の時点ではまだ生まれていませんから、相続の権利がありません。
一方では認められないことが他方では認められるのは、矛盾しているようにも思われますが、これは両方とも「胎児の利益保護」を第一に考えた結果なのです。
裁判所は、出生後に得られるはずの相続権を胎児の段階で誰かに侵害されることを防ぐため、そして登記実務は、胎児の段階で相続権を認めることで胎児名義の登記を可能として相続権を明確にアピールできるようにするため、このような理論を構成しているのです。

 

今朝のお供、
COLDPLAY(イギリスのバンド)の『美しき生命』。

 

(佐々木 大輔)

『ノルウェイの森』

発売は1987年9月。赤(上巻)と緑(下巻)の表紙。帯には「100パーセントの恋愛小説」のキャッチコピー。
恋愛と絶妙な装丁との組み合わせの効果もあってか、クリスマス商戦にも乗り、売れに売れました。
その現象は一時のブームで終わることなく、20年以上経った現在も新たな読者を獲得し、『ノルウェイの森』は村上春樹の代表作として揺るぎない地位を確立しています。

「恋愛小説」、たしかにその通りのストーリーです。
とはいえ、作者自身は「恋愛小説」というより「リアリズム小説」と説明しており、村上作品の特徴である“現実の裂け目”(と私が勝手に呼んでいる)のない作品ということが、初心者にも読みやすく人気を博している理由なのかもしれません。

しかし私には、この作品を読みやすさ故の単純な小説と言い切ることはできません。
本作に至るまでの村上作品の主人公は、失うことを恐れて自ら決定してこなかったという共通点があります。決定するということは失うことと背中合わせの行為です。一方を選ぶとき、選ばなかった一方を得ることはできません。それを避けるがため、村上作品の主人公は自ら決定することなく、向こうからやってくる現実をただ受け入れることでやり過ごしてきたのです。
ところが、この作品の最後で主人公は、失うことを認めたうえである重大な決定をします。これは村上作品の大きな変化を告げる一作でもあるのです。

今週末、映画『ノルウェイの森』が公開されます。
村上作品が映像化されることはほとんどありません。
作者自身も、当時のインタビューでは本作について、「(映画化は)無理ですよ。だれにもできない。僕が一番うまく頭の中でつくったから」と発言していました。
恋愛小説の体を採り、なめらかな運びで「決定と再生」を描いたこの作品を、はたしてトラン・アン・ユン監督はどのような切り口で見せてくれるのでしょうか。

 

今朝のお供、
The Beatlesの『RUBBER SOUL』。
今回の映画化に伴って、サウンドトラックとしてビートルズの原盤使用が許可されたことも大きなニュースになっていましたね。

 

(佐々木 大輔)

公訴時効

刑事ドラマなどでよく、犯人(と思しき人間)が「あと○年逃げ切れば自由の身だ!」というようなセリフを言うことがあります。
この「○年」というのは、時効のことですね。時効には、一定期間の経過により言い渡された刑の執行が免除される「刑の時効」と「公訴時効」とがありますが、今回は、公訴時効についてお話します。
公訴とは、検察官が裁判所に対して「罪を犯したと疑われる人間=被疑者」を訴えることですから、公訴時効とは検察官が被疑者を裁判所に訴えるまでのタイムリミットということになります。
セリフのとおり、公訴時効が完成すると、裁判所は被疑者について有罪・無罪の判断をすることができなくなるので、犯人からすれば“無罪放免”という気持ちでしょう。これに対して「“犯人”が、責任を問われなくなるのは納得できない」というのが一般的な本音ではないでしょうか。
(厳密には、有罪判決が確定していない以上犯人ではなくあくまでも被疑者です。また、被疑者は免訴となるのであり、無罪となるわけではありません。)

それでは、なぜ公訴時効というものが存在するのでしょう?
これにはいくつかの理由が挙げられます。
ひとつは、時が経過することにより犯罪に対する社会の処罰感情が落ち着き、刑の威嚇力が弱くなるためといわれています。
あるいは、証人の記憶が曖昧になったり、証拠が散逸することから、捜査が困難になってしまうためといわれています。
しかし、これらは理由として適切でしょうか。
必ずしも時の経過とともに処罰感情が落ち着くというわけではありません。被害者の家族であれば、処罰感情はむしろ深く残ることでしょう。それに、公訴時効の期間は刑の軽重を基準に定められていますから、証拠の散逸等を理由とするのでは、この点を説明できません。
このように、公訴時効の本質をどう理解すべきかという問題は、学者の間でも未だに対立のあるところなのです。

一方で、対立を残しつつ、公訴時効の期間は延長される傾向にあります。さらに、今年の刑事訴訟法改正により、殺人罪など一定の重い犯罪については公訴時効が廃止されました。

最後に、刑事ドラマについてひと言。
刑事が「時効数時間前に逮捕して一件落着」のようなエンディングを迎えるものが時々ありますが、今回お話ししたように、公訴時効は検察官が裁判所に訴えるまでのタイムリミットです。
逮捕後、被疑者を取り調べ、身柄を検察庁に送り、検察官が最終的に起訴するかどうかを決定する。
とても数時間でできることではありませんよね・・・。

 

今朝のお供、
BECK(アメリカのミュージシャン)の『MODERN GUILT』。

(佐々木 大輔)