毎年秋は、国内外の主要なオーケストラの新シーズンが始まり、各オーケストラがどんなプログラムを組んでくるのか楽しみな時期でもあります。
中でもNHK交響楽団(N響)は、テレビやラジオでも演奏会を楽しむことができることから、私にとって最もその演奏を楽しむ機会が多いオーケストラといえるでしょう。
私がN響の演奏で思い出に残っているのは、まず、小澤征爾の指揮とロストロポーヴィチのチェロによる「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」(1995年)。そして、普段優等生的なN響が珍しく熱く燃え、興奮と感動のあまり泣きながら演奏する団員もいたというチョン・ミョンフンの指揮による「チャイコフスキーの交響曲第4番」(1998年)です。
小澤征爾の演奏は、「ボイコット事件」(*)以来絶縁状態にあった両者が、32年ぶりに共演するという歴史的な演奏会でのもの。折しも阪神淡路大震災発生直後の演奏会ということもあって、始まりと終わりは拍手なしの黙とうにより、静寂に包まれた異例の演奏会となりました。
「今、ここに鳴らさなければならない音」が切実な響きとなって、和解に至る前の張り詰めた緊張感を飲み込むさまを聴くにおよび、真の音楽を前にした時、私的な感情は一切の意味を失うことを思い知らされた演奏でもあります。
さて、N響は今シーズン(2015年9月)から、パーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎えました。N響が「首席指揮者」というポストを設けたのは今回が初めてとのことで、ヤルヴィが初代ということになります。
過去にN響と深くかかわった指揮者たちが務めてきたポストは、名誉指揮者や常任指揮者あるいは音楽監督というもので、いったい首席指揮者とはどう違うのかと聞かれても私にはよくわからないのですが、とにかく、これからしばらくの年月、N響はヤルヴィとの演奏を中心に活動していくことになります。
私が聴く限り、ヤルヴィの音楽作りに独裁的な色合いはなく、団員個々から良いところを積極的に引き出した上で、それをリーダーとしてまとめ上げ、ひとつの方向へ導いていくため、オーケストラの自発性が高められ、音楽に弾けるような喜びが輝きます。
N響は、ドイツ・オーストリアの伝統に根差した音楽作りをしてきたオーケストラです。長きにわたりN響を指導してきたサヴァリッシュやスイトナーといった優れた指揮者の薫陶によるところも大きいでしょう。その一方で、デュトワ時代には、エスプリの効いた色彩豊かな音への変化が高く評価されました。
ヤルヴィの就任によってN響の音はどのように変わるのでしょう。
過去の客演、10月の演奏会からは、相性の良さがうかがえます。レパートリーも多岐にわたる指揮者ですし、N響の新しい魅力を存分に引き出してくれることと期待しています。
*ボイコット事件(1962年)
若き日の小澤とN響が衝突し、N響が本番をボイコットした事件。
演奏会当日、団員のいないステージに小澤がひとり登壇した。
今朝のお供、
DEF LEPPARD(イギリスのバンド)の『ADRENALIZE』。
(佐々木 大輔)
今年はフィンランドの作曲家シベリウスの生誕150周年。
そこで今回は、私が特に好むシベリウスの曲を2曲紹介します。
最初に紹介するのは交響曲第5番。
7曲あるシベリウスの(番号付き)交響曲の中で、最もポピュラーなのは第2番かと思いますが(もちろん私も大好きです)、私が今最も惹かれるのは第5番の交響曲です。
とてもユニークな構成で、特に最終楽章の終結部は、初めて演奏会で聴いたとしたら、どのタイミングで拍手をすればいいのか分からないような、ベートーヴェンもびっくりの終わり方です。
私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団による演奏。大胆な強弱や緩急をつけて趣向を凝らした演奏は、シベリウスというよりは、ラトルの才気を強く感じさせるものですが、キレのあるリズムや見通しのよい音づくりにより、陽光はきらめき、若草は爽やかに香ります。
件の終結部は輝かしく、数ある同曲異演の中でも説得力は群を抜いているように思われます。
次はヴァイオリン協奏曲を。
開放的な第5交響曲に対し、北欧の冷たい空気を思わせる張りつめた緊張感と洗練されたリリシズムが魅力的な曲です。
私はこの曲を、高校生の時に買ったアンネ=ゾフィー・ムターの演奏によって知ったものですから、ムターの演奏が私にとっての原体験となっています。
とはいえ、その後いろいろな演奏を聴くにおよび、ムターの演奏は(名演であることに疑いの余地はありませんが)この曲本来の姿からすれば、かなり異端な演奏ではないだろうかと感じるようになりました。
むせ返るほど濃厚なこの演奏に対して、「これはシベリウスではない」と拒否反応を示す方もいるでしょう。
最近、もう少し繊細なヴァイオリンを聴きたいときは、クリスチャン・フェラスのレコードに針を落とすことにしています(共演はカラヤン指揮ベルリン・フィル)。
ほの暗い色気を湛え、死のにおいもそこはかとなく漂うフェラスの演奏。惜しむらくは、オーケストラが重すぎること。
しかし、フェラスの繊細なヴァイオリンを、風に折れそうになりながら必死に耐え忍ぶ一輪の花と聴けば、それはそれで素敵な演奏なのかもしれません。
好きな曲を気分に応じて何種類かの演奏で楽しむ。
世間の評価は別として、自分にとっての名演を探す。
それは音楽のもっとも美味しい楽しみ方(と私は思います)であり、禁断の果実でもあります。
この味を知ってしまった以上、もう、後戻りはできません。
その代償として、同曲異演のCDやレコードが際限なくたまります。
今朝のお供、
METALLICA(アメリカのバンド)の『Master of Puppets』。
(佐々木 大輔)
世界的なピアニストであるマウリツィオ・ポリーニが、39年の年月を経て、ついにベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲録音(全32曲)を完結させ、全集という形で発売しました―同時に、これまで1枚1枚購入してきた愛好家のために、最後の1枚(第16番から第20番を収録)も分売されました―
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は数多(あまた)あれども、これだけの年月をかけ、そして、これだけの完成度を誇る全集は空前絶後でしょう。
ポリーニというピアニストのことはご存知の方も多いと思いますが、改めて紹介しますと、1960年、当時最年少の18歳でショパンコンクールに優勝、名ピアニストである審査委員長のルービンシュタインから、「審査員の誰も彼のように巧く弾けない」と絶賛されました。
すでに名声は手の中にあり、華々しくスター街道を邁進するかと思いきや、「このままでは音楽家として成長しない」と考え、勉強と研鑽のため一度表舞台から姿を消します(再起不能説まで流れたほど)。
10年の時を経て、ストラヴィンスキー等近代作品集と、ショパンのエチュード集のレコードを立て続けに発表し、再び表舞台へ躍り出たのは1970年代になってから。この再デビューは、ショパンコンクール優勝時をはるかに凌ぐ衝撃的なものとなりました。
完璧な技巧に裏付けられ確信に満ちた演奏。大理石にもたとえられる硬質な輝きを放つ音色。
特にショパンのエチュードは、「これ以上何をお望みですか」という音楽評論家吉田秀和氏のキャッチコピーとともに、日本でも大きな反響を呼び、未だに決定盤として揺るぎない地位を築いています。
だいぶ前置きが長くなりましたが、ポリーニがベートーヴェンのソナタで最初にとりあげたのは、後期の作品である第30番と第31番(1975年録音)。
通常であれば、「月光」や「熱情」のような有名どころから録音を開始し、後期の作品はある程度キャリアを積んだところで、満を持してとりあげることが多いものです。ところがポリーニは、いきなり後期の作品を録音したため、この録音は全曲録音を見据えたものではなく、現代音楽も得意とする彼が、ベートーヴェンのソナタの中で、最も現代音楽と親和性の高い作品を選び単発で録音したものであると私は思っていました。
しかしその後、ぽつぽつとソナタの録音が発表されるにつれ、「もしかしたら全曲録音が完成するのでは」という淡い期待を抱いていたことも事実です。
私は、ポリーニの新譜が発売される度、1枚1枚買い揃えてきましたので、今回の全集は敢えて購入する必要はなかったのですが、全集という形で所有したいという強い思いに駆られて購入、スピーカーの前で居住まいを正して全曲を聴き直しました。
録音状態はもちろん、ポリーニの演奏スタイルにも変化がうかがえますが、不思議と不統一感はありません。楽聖と向き合うポリーニの覚悟と厳しさが、そこに一貫として刻印されているからです。
ポリーニのピアニストとしてのキャリアをほぼ俯瞰できるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集。
変わったものと変わらないもの。変えてはならないもの。
彼のピアニストとして、人間としての来し方に思いを馳せながら、今年のブログの締めくくりとします。
今朝のお供
飯野明日香(秋田市出身のピアニスト)の『フランス・ナウ』。
飯野明日香さんは、私がお世話になっている税理士長谷部光重先生、長谷部光哉先生ご兄弟の姪御さんです。この度、本作品で、第52回レコードアカデミー賞(現代曲部門)を受賞されました。おめでとうございます。
(佐々木 大輔)