カテゴリー「本・文芸」の記事

みそひともじ

三十一文字。みそひともじ。
制約の中で世界を表現する。
私自身は短歌を詠みませんが、祖母が日常生活や孫たちの成長を折に触れて詠んでいましたので(今でも現役で詠んでいます)、幼いころから短歌をわりと身近に感じてきました。

私が好きな春の歌のひとつに、俵万智氏の作品で、
「ふうわりと並んで歩く春の道 誰からもみられたいような午後」
という歌があります。
穏やかな春の日差しの中、幸せに包まれたカップルの誇らしげな気持ちが伝わってくる良い歌ですね。
このふたりは付き合いはじめてまだ日が浅いのかな。世界中に愛を叫ぶような力強さではなく、誇らしさの中にほんのりとした気恥ずかしさも包含されているように感じられます。

この歌が完成形として歌集に収められるまでには、当たり前ですが、何度も手直しを行ったと俵氏もその著書『短歌をよむ』で解説しています。
初稿の上の句は「ふうわりとふたり並んで歩く道」だったそうですが、なんとしても春の気分を表したくて、上の句を「ふうわりと並んで歩く春の道」と直したところ、初稿の「ふうわり」「ふたり」の「ふ」の響きあいも捨てきれず、「ふうわりとふたりで歩く春の道」へと再修正。しかし、「ふたりで」と説明するよりも、「並んで」という言葉から「ふたり」を想像する方が素敵であると考え、歌集に収めた形がベストであると判断したとのことです。

短歌は、文章を書く上でも大変参考になります。
説明しすぎないこと。簡潔、かつ、読む人の想像に働きかける表現を心がけること。
伝えたい気持ちが溢れて、言葉が過剰になってしまうこともあります。一方、仕事の上では潤いのない文章を書かざるを得ない場面もあります(私の場合はほとんどかもしれません)。

短歌を観賞することは、研ぎ澄まされた言語表現の豊潤さを味わいながら、言葉の奥深さに唸らされるとともに、自分の書いた文章(言葉)と徹底的に向き合い、何度も修正を重ねることの大切さを教えてくれます。

 

今朝のお供、
サザンオールスターズの『葡萄』。
忘れたいことばかりの春だから ひねもすサザンオールスターズ
―俵万智

(佐々木 大輔)

真実を見抜く目を養う

先日、堤未果著『政府は必ず嘘をつく』という本を読みました。
あまり品がいいとは言えないタイトルですが(最近はインパクトばかりを重視したタイトルの本が多く、あまり感心しません)、その内容は、9.11同時多発テロ以降のアメリカが抱える問題を明らかにし、東日本大震災以降の日本が同じ轍を踏まないよう警告するものでした。
堤氏は、ベストセラーとなった『ルポ 貧困大国アメリカ』等の著作でも知られるジャーナリストです。

本書でまず目を引いたのは、「コーポラティズム」という言葉。
堤氏によると、想像を絶する資金力をつけた経済界が政治と癒着することを表す言葉とのことです。
堤氏は、アメリカの現状について、レーガン政権がメディアの企業所有を解禁して以来、大資本によるマスメディア(テレビや新聞等)の集中と系列化が進んだことで、情報操作が頻繁に起こるようになり、多様な意見が反映されなくなっていることを指摘。その結果、アメリカの政治は、資本が裏で糸を引く、名ばかり二大政党と化し、「資本独裁国家」とでも呼ぶべき状態に陥っていると慨嘆します。
これはアメリカに限られたことではないでしょう。
では、どうすれば真実を見抜くことができるのか。
堤氏は、「腑に落ちないニュースがあったら資金の流れをチェック」し、「情報を比較する」ことが大切であると説きます。

その具体例のひとつとして挙げられているのが、2011年にリビアで起こった民主革命です。
民主革命である「アラブの春」が、リビアにも拡大したことを喜ぶリビア国民の様子が、日本においても連日報道されました。
しかし、堤氏は、「カダフィ政権が、ドルとユーロに対抗するための統一通貨ディナの導入を計画していたこと」こそが、リビアの民主革命の引き金であったと看破し、「ディナが実現すれば、アラブとアフリカは統合され、石油取引の決済がドルからディナに代われば、基軸通貨であるドルの大暴落は避けられない」とするアメリカの憂慮が、リビア国民の民主化機運の高まり以上に、色濃く反映されたものであったと主張します。
ちなみに、「アラブの春」の立役者となったフェイスブック(インターネット上において、同じ目的を持つ仲間が交流を図るための会員制サービス)は、アメリカの会社が提供するサービスです。

ただし、本書の内容を全て鵜呑みにするのはいかがなものかな、というのが私の正直な感想です。
本書には、たとえば立憲主義に対する堤氏の誤認(直接本書のテーマとは関係がない部分であり、揚げ足をとるつもりはありませんが)などがあり、はたして全ての内容が正しい知識に基づいて書かれているのか心許なく思うところもあります。
また、堤氏の主張を裏付ける証言が、特定の人物からのみ得られたものであることが多く、公平さという側面にも疑問が残ります。

本書の内容も、堤氏というひとりのジャーナリストが発するひとつの情報ですから、堤氏自身が指摘するように、他の情報と比較し、多角的な視点で考察する必要があるでしょう。
本当のメディアリテラシー(テレビや新聞等からの情報を主体的・批判的に読み解く力)が試される一冊なのかもしれません。

 

今朝のお供、
MEGADETH(アメリカのバンド)の『RUST IN PEACE』。
サマソニのセットリストがコンパクトながらも豪華で・・・

(佐々木 大輔)

『『論考』を読む』を読む

すっかり「時機に後れ」てしまいましたが、昨年読んだ本の感想を今のうちにアップしておきます。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(『論考』)は、彼が29歳の時に執筆した著書で、20世紀における最も重要な哲学書として 有名ですが、これが当然のことながら難しい・・・。
そこで今回の(再々?)挑戦は、野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を座右に置いて取り組むことにしました。

ウィトゲンシュタインは、『論考』の執筆終了をもって、哲学の問題は全て解決されたと考え(のちにこの考えは彼自身が否定することとなりますが)、哲学の世界からいったん身を引き、もともとなりたかったという小学校教師となります。
事実、ウィトゲンシュタインの生前に出版された著書は、この『論考』と『小学生のための語彙集』(小学生用の辞書)だけです。

さて、件の『『論考』を読む』は、野矢教授の他の著書にもみられるとおり(私は野矢教授の著書が好きで、法科大学院入試の準備の際にもお世話になりました)、柔らかく、時にユーモアのある語り口で、読みやすく書かれてはいますが、入門書としてお茶を濁したものではありません。
危険なのは、その読みやすさゆえ、『論考』を理解したつもりになるところ。また、本書の後半では、野矢教授独自の主張を展開している部分も多々あることから、あくまでも野矢教授の解釈による『論考』として受け止める必要があるのかもしれません。

残念ながら、今回も私は本体の『論考』について、ここで語ることができるだけの理解は叶いませんでした。
それでも、時をおいてまた挑戦したくなる魅力から逃れられそうにありません。

 

今朝のお供、
Maroon 5(アメリカのバンド)の『IT WON’T BE SOON BEFORE LONG』。
それにしてもヴォーカルのアダムの声には色気がありますねえ。
5曲目大好きです。ちょっとThe Policeっぽいけれど。

(佐々木 大輔)