先日、堤未果著『政府は必ず嘘をつく』という本を読みました。
あまり品がいいとは言えないタイトルですが(最近はインパクトばかりを重視したタイトルの本が多く、あまり感心しません)、その内容は、9.11同時多発テロ以降のアメリカが抱える問題を明らかにし、東日本大震災以降の日本が同じ轍を踏まないよう警告するものでした。
堤氏は、ベストセラーとなった『ルポ 貧困大国アメリカ』等の著作でも知られるジャーナリストです。
本書でまず目を引いたのは、「コーポラティズム」という言葉。
堤氏によると、想像を絶する資金力をつけた経済界が政治と癒着することを表す言葉とのことです。
堤氏は、アメリカの現状について、レーガン政権がメディアの企業所有を解禁して以来、大資本によるマスメディア(テレビや新聞等)の集中と系列化が進んだことで、情報操作が頻繁に起こるようになり、多様な意見が反映されなくなっていることを指摘。その結果、アメリカの政治は、資本が裏で糸を引く、名ばかり二大政党と化し、「資本独裁国家」とでも呼ぶべき状態に陥っていると慨嘆します。
これはアメリカに限られたことではないでしょう。
では、どうすれば真実を見抜くことができるのか。
堤氏は、「腑に落ちないニュースがあったら資金の流れをチェック」し、「情報を比較する」ことが大切であると説きます。
その具体例のひとつとして挙げられているのが、2011年にリビアで起こった民主革命です。
民主革命である「アラブの春」が、リビアにも拡大したことを喜ぶリビア国民の様子が、日本においても連日報道されました。
しかし、堤氏は、「カダフィ政権が、ドルとユーロに対抗するための統一通貨ディナの導入を計画していたこと」こそが、リビアの民主革命の引き金であったと看破し、「ディナが実現すれば、アラブとアフリカは統合され、石油取引の決済がドルからディナに代われば、基軸通貨であるドルの大暴落は避けられない」とするアメリカの憂慮が、リビア国民の民主化機運の高まり以上に、色濃く反映されたものであったと主張します。
ちなみに、「アラブの春」の立役者となったフェイスブック(インターネット上において、同じ目的を持つ仲間が交流を図るための会員制サービス)は、アメリカの会社が提供するサービスです。
ただし、本書の内容を全て鵜呑みにするのはいかがなものかな、というのが私の正直な感想です。
本書には、たとえば立憲主義に対する堤氏の誤認(直接本書のテーマとは関係がない部分であり、揚げ足をとるつもりはありませんが)などがあり、はたして全ての内容が正しい知識に基づいて書かれているのか心許なく思うところもあります。
また、堤氏の主張を裏付ける証言が、特定の人物からのみ得られたものであることが多く、公平さという側面にも疑問が残ります。
本書の内容も、堤氏というひとりのジャーナリストが発するひとつの情報ですから、堤氏自身が指摘するように、他の情報と比較し、多角的な視点で考察する必要があるでしょう。
本当のメディアリテラシー(テレビや新聞等からの情報を主体的・批判的に読み解く力)が試される一冊なのかもしれません。
今朝のお供、
MEGADETH(アメリカのバンド)の『RUST IN PEACE』。
サマソニのセットリストがコンパクトながらも豪華で・・・
(佐々木 大輔)
すっかり「時機に後れ」てしまいましたが、昨年読んだ本の感想を今のうちにアップしておきます。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(『論考』)は、彼が29歳の時に執筆した著書で、20世紀における最も重要な哲学書として 有名ですが、これが当然のことながら難しい・・・。
そこで今回の(再々?)挑戦は、野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を座右に置いて取り組むことにしました。
ウィトゲンシュタインは、『論考』の執筆終了をもって、哲学の問題は全て解決されたと考え(のちにこの考えは彼自身が否定することとなりますが)、哲学の世界からいったん身を引き、もともとなりたかったという小学校教師となります。
事実、ウィトゲンシュタインの生前に出版された著書は、この『論考』と『小学生のための語彙集』(小学生用の辞書)だけです。
さて、件の『『論考』を読む』は、野矢教授の他の著書にもみられるとおり(私は野矢教授の著書が好きで、法科大学院入試の準備の際にもお世話になりました)、柔らかく、時にユーモアのある語り口で、読みやすく書かれてはいますが、入門書としてお茶を濁したものではありません。
危険なのは、その読みやすさゆえ、『論考』を理解したつもりになるところ。また、本書の後半では、野矢教授独自の主張を展開している部分も多々あることから、あくまでも野矢教授の解釈による『論考』として受け止める必要があるのかもしれません。
残念ながら、今回も私は本体の『論考』について、ここで語ることができるだけの理解は叶いませんでした。
それでも、時をおいてまた挑戦したくなる魅力から逃れられそうにありません。
今朝のお供、
Maroon 5(アメリカのバンド)の『IT WON’T BE SOON BEFORE LONG』。
それにしてもヴォーカルのアダムの声には色気がありますねえ。
5曲目大好きです。ちょっとThe Policeっぽいけれど。
(佐々木 大輔)
先日読んだ平野啓一郎著『ドーン』という小説は、久しぶりに読み応えのある作品でした。
ご存知の方も多いかと思いますが、平野氏は大学在学中にデビュー作『日蝕』で芥川賞を受賞。大学生の同賞受賞は、石原慎太郎(『太陽の季節』)、大江健三郎(『飼育』)、村上龍(『限りなく透明に近いブルー』)に続く4人目でした。その才能から三島由紀夫の再来と謳われた一方、擬古文で書かれた難解な文体により敬遠する人が多かったのも事実です。
恥ずかしながら私も、2作目の『一月物語』までは読んだものの、その後、平野氏の作品を手に取ることはありませんでした。
今回取り上げる『ドーン』は、平易な文章で書かれています。
舞台は近未来。主人公は、2033年に人類で初めて火星に降り立った宇宙船ドーンのクルー。3年後の2036年、無事地球へ帰還して世界的な英雄になりますが、ドーンの中で起こったある事件が原因で、アメリカ大統領選挙を巡る陰謀に巻き込まれていきます。
平野氏といえば、小難しい純文学ど真ん中の作家というイメージでしたが、本作はSFエンターテインメント小説としても楽しめます。
とはいえ、単なる娯楽で終わらないのは純文学作家の矜持なのか、ここで平野氏は、「分人主義(dividualism)」という概念を持ち出し、「私とは何か」というテーマに戦いを挑みます。
「分人主義」とは平野氏の造語で、個人(individual)とは分割不可能(divideできないもの)であるという概念に対し、個人とは分割可能な分人(dividual)の集合体であるという考え方です。
―対人関係や居場所ごとに、自動的に現れる異なった自分(分人)が存在するが、これは一個の主体が様々な仮面を使い分ける「キャラを演じること」とは区別される。「キャラ」は、一個の主体が場面に応じて操作的に使い分けるものであり、「分人」は向かい合う相手と協同的に個別に生じるものである―
平野氏はこのように考えます。
従来の意味での「本当の自分」に固執すれば、一個の主体ですべての相手や場面に対応しなければならなくなり、キャラを演じることにつながります。その結果として、人によっては、内面と外面のギャップに苦しむことになってしまいます。
「私」とは、一個の「本当の自分」ではなく、それぞれが独立した自分である各分人によって構成され、それらの自分を駆け巡りながら思考する存在だと考えれば、キャラを演じることから解放され、様々な顔を持つ自分のことも肯定することができるのではないでしょうか。
このようなテーマを、的確な表現で物語に落とし込んだ平野氏には、「文筆家、かくあるべし」との凄みを感じました。
今朝のお供、
サザンオールスターズの曲「Ya Ya(あの時代を忘れない)」。
秋の風に乗って、夕暮れ迫る宮城の空に鳴り響いた5年振りの音。
(佐々木 大輔)